佐々木まなびさんというグラフィックデザイナーが著した『雨を、読む。』(芸術新聞社)という本がめっぽう面白かった。

雨を読む、とは、雨にまつわるいろんな言葉を味わうように読む、ということ。それを自他ともに認める「雨女」である著者が教えてくれます。
歌川広重の名作『大はしあたけの夕立』

雨を黒い線として描いた浮世絵で、ゴッホをはじめ欧米の画家たちは驚嘆したとか。日本人は雨を独自の目で見ていたようです。
渋谷の映画学校に行っていた頃、脚本の講師がこの絵について熱心に語ってましたっけ。いったい何を語っていたのかすっかり忘れてしまったけど。黒くない雨を黒い線で描くような独創性をもて、みたいなことだったのかな?
さて、この国にはどんな「雨言葉」があるのでしょうか?(四字熟語など中国由来の言葉も多いですが)
雨言葉の数々
「雨一番」
こんな言葉初めて知った。北海道で立春のあと、初めて雪が混ざらずに雨だけが降る日のこと。知らなかった。ただし、これは古来の言葉ではなく、釧路気象台の広報室長だった人の造語とか。なぁんだ。春一番に対抗して作ったのでしょうね。
「男梅雨」
激しく降ってサッとやむことを繰り返す、陽性型と言われる梅雨のこと。そして逆に↓こんな言葉↓もある。
「女梅雨」
しとしと長く降り続く梅雨。
この「男梅雨」「女梅雨」を著者は「日本の男性が描いた理想だったのかもしれない」というが、よくわからない。わからないではないが、降ったりやんだりを繰り返すのって何となく優柔不断な感じがする。男だろうと女だろうと優柔不断な人間は多い。ちなみに私は自分の食べたいものもすぐに選べない人間を見るといらいらする。
ただ、しとしと長く降り続く雨に「女」を感じるというのはわかる気がする。何となく艶やかな感じがするから。それが著者の言う「男の理想」ということなのだろうか?
しかし、男梅雨にしても女梅雨にしても、ジェンダーがどうのこうのとうるさい昨今なので、こういう言葉が政治的思惑によって抹殺されることだけは絶対に許してはならないと強く思う。言葉は文化。文化は命。
「狐の嫁入り」
「狐のご祝儀」
「化雨(ばけあめ)」
「日照雨(そばえ)」
これらはすべて同じ意味。日が射しているのに降る雨のこと。同じ意味で「天泣(てんきゅう)」という言葉もあるそう。太陽が出ているのに雨が降る情景に「天が泣く」姿を古人は見たらしい。粋である。
そういえば、こんな言葉も紹介されていた。
「空知らぬ雨」
涙のことを譬えた言葉。美しい。逆にいえば、晴れているのに降る雨は「空が知っている涙」ということですね。なるほど、だから「天泣」という言葉があるわけか。
「山賊雨」
突然やって来る雷雨のこと。
中学のサッカー部の練習中、西から真っ黒な雲の大群がやって来るのが見えた。ものすごいスピードで。顧問が「すぐ校舎に避難しろ!」と指示し、とんでもない大雨が襲いかかってきたが、すでに校舎に入っていたので事なきを得た。嫌いな顧問だったが、あの咄嗟の判断には感心したもの。突然降る雨は何度もあるが、あんなにものすごい雷雨が突然来るというのは人生で一度だけ。あの迫りくる黒い雲の大群、思い出しただけで恐ろしい。「山賊雨」とはよく言ったもの。
「樹雨(きさめ)」
霧のしずくが森林の木の葉にたまり、重くなると落ちてくる大粒の水滴のこと。雨かと勘違いするほどの大粒で、降らずとも林床に水を供給できるという大きな役割があり、樹林帯の植生に影響力をもつ。
なるほど。雨だけでは足らないのか。というか、雨になれなかった水蒸気が霧となって木の葉に吸着し、仲間を集めて大地に落ちるということか。水の循環は地球環境を維持するための大きな装置。というか、水の循環自体が生命のように動いているらしいとある番組で言っていた。大地と天空を行き来する水の循環。もしかしたらそれこそが「永久機関」というものなのかもしれない。
「私雨(わたくしあめ)」
限られた範囲にだけ降る雨のこと。おそらく、「私」という字から察するに、他の田んぼでは降ってないのに、自分の田んぼにだけ降るような雨のことなのだろう。逆に、山のふもとでは降らず、山頂だけに振る雨、つまり自分たちの田んぼや畑には振ってくれない雨を「我儘雨(わがままあめ)」というらしい。笑える。しかし大自然は自分の思い通りにはならないという「畏れ」の気持ちも同時に感じる。
「友風子雨」
これ、何のことかわかりますか?
「風を友とし、雨を子とする」と読み下す。そう、「雲」のこと。何とも粋な言葉。
「空に三つ廊下」
これも難しい。「廊下」を「ろうか」とひらがなにして、雨や天に関する動詞と組み合わせてみましょう。
「降ろうか」「照ろうか」「曇ろうか」。この三つの「ろうか」が同居している空模様のことだそうです。つまり、降るのか晴れるのかはっきりしない天気。面白いといえば面白いけど、何かちょいと野暮ったい感じ。
「雨を聴く」
雨音に耳を傾けることだが、同時に「静雨(せいう)」という言葉もあり、「静雨を聴く」なんて言葉を造語してみた。静雨は文字通り静かに降る雨のことだが、ほとんど無音の状態に耳を凝らすと、聴こえなかった音が聴こえたり、見えなかったものが見えたりするんじゃないか。「無」に想いを馳せることの大切さを改めて思う。
「雨露」
文字通り、雨と露のこと。家の花壇なんかで草花に水をやる道具を「ジョウロ」と言いますが、あれは漢字で書くと「如雨露」だそうで、「雨露の如し」ということだそうです。ぜんぜん知らんかった!
ここで大事なのは「雨」だけでなく「露」も入っていることですね。雨だけが恵みの水をもたらすのではなく、上述の「樹雨」の霧と同じく、水蒸気の塊が大地に落ちても同じ恵みの水だということ。昔の人にとっては、雨は雨だけを意味するのではなく、「水蒸気」全般を指していたのかも、なぁんて夢想してしまいました。
「雨女」
私は雨男だし、雨女も著者をはじめたくさんいるでしょうが、もとは妖怪の名前らしい。雨を呼び、人を助ける妖怪とか。
原型は卑弥呼ではないか。こないだ『サイエンスZERO』で「天気痛」が取り上げられていて、おそらく卑弥呼は天気痛の持ち主だっただろうと言っていた。雨が降る、つまり気圧が下がると頭や膝などが痛くなる。それを逆手にとって、痛みが出ると雨が降るサインだと雨乞いをする。すると本当に降ってくるので、民衆は「卑弥呼さまはやはり神様だ!」と感激し、強大な権力を得たのだろうと。天皇家も天気痛の持ち主が祖先なのかもしれない。ちなみに、降るべきときに降る雨を「霊雨(れいう)」と古人は呼んだそうな。
こんな素敵な本を書いてくださった佐々木まなびさんは、きっと恵みの雨をもたらしてくれる現代の妖怪なのでしょうか。私も雨男として、他人様に恵みの雨をもたらす妖怪になろうと思います。



雨を読む、とは、雨にまつわるいろんな言葉を味わうように読む、ということ。それを自他ともに認める「雨女」である著者が教えてくれます。
歌川広重の名作『大はしあたけの夕立』

雨を黒い線として描いた浮世絵で、ゴッホをはじめ欧米の画家たちは驚嘆したとか。日本人は雨を独自の目で見ていたようです。
渋谷の映画学校に行っていた頃、脚本の講師がこの絵について熱心に語ってましたっけ。いったい何を語っていたのかすっかり忘れてしまったけど。黒くない雨を黒い線で描くような独創性をもて、みたいなことだったのかな?
さて、この国にはどんな「雨言葉」があるのでしょうか?(四字熟語など中国由来の言葉も多いですが)
雨言葉の数々
「雨一番」
こんな言葉初めて知った。北海道で立春のあと、初めて雪が混ざらずに雨だけが降る日のこと。知らなかった。ただし、これは古来の言葉ではなく、釧路気象台の広報室長だった人の造語とか。なぁんだ。春一番に対抗して作ったのでしょうね。
「男梅雨」
激しく降ってサッとやむことを繰り返す、陽性型と言われる梅雨のこと。そして逆に↓こんな言葉↓もある。
「女梅雨」
しとしと長く降り続く梅雨。
この「男梅雨」「女梅雨」を著者は「日本の男性が描いた理想だったのかもしれない」というが、よくわからない。わからないではないが、降ったりやんだりを繰り返すのって何となく優柔不断な感じがする。男だろうと女だろうと優柔不断な人間は多い。ちなみに私は自分の食べたいものもすぐに選べない人間を見るといらいらする。
ただ、しとしと長く降り続く雨に「女」を感じるというのはわかる気がする。何となく艶やかな感じがするから。それが著者の言う「男の理想」ということなのだろうか?
しかし、男梅雨にしても女梅雨にしても、ジェンダーがどうのこうのとうるさい昨今なので、こういう言葉が政治的思惑によって抹殺されることだけは絶対に許してはならないと強く思う。言葉は文化。文化は命。
「狐の嫁入り」
「狐のご祝儀」
「化雨(ばけあめ)」
「日照雨(そばえ)」
これらはすべて同じ意味。日が射しているのに降る雨のこと。同じ意味で「天泣(てんきゅう)」という言葉もあるそう。太陽が出ているのに雨が降る情景に「天が泣く」姿を古人は見たらしい。粋である。
そういえば、こんな言葉も紹介されていた。
「空知らぬ雨」
涙のことを譬えた言葉。美しい。逆にいえば、晴れているのに降る雨は「空が知っている涙」ということですね。なるほど、だから「天泣」という言葉があるわけか。
「山賊雨」
突然やって来る雷雨のこと。
中学のサッカー部の練習中、西から真っ黒な雲の大群がやって来るのが見えた。ものすごいスピードで。顧問が「すぐ校舎に避難しろ!」と指示し、とんでもない大雨が襲いかかってきたが、すでに校舎に入っていたので事なきを得た。嫌いな顧問だったが、あの咄嗟の判断には感心したもの。突然降る雨は何度もあるが、あんなにものすごい雷雨が突然来るというのは人生で一度だけ。あの迫りくる黒い雲の大群、思い出しただけで恐ろしい。「山賊雨」とはよく言ったもの。
「樹雨(きさめ)」
霧のしずくが森林の木の葉にたまり、重くなると落ちてくる大粒の水滴のこと。雨かと勘違いするほどの大粒で、降らずとも林床に水を供給できるという大きな役割があり、樹林帯の植生に影響力をもつ。
なるほど。雨だけでは足らないのか。というか、雨になれなかった水蒸気が霧となって木の葉に吸着し、仲間を集めて大地に落ちるということか。水の循環は地球環境を維持するための大きな装置。というか、水の循環自体が生命のように動いているらしいとある番組で言っていた。大地と天空を行き来する水の循環。もしかしたらそれこそが「永久機関」というものなのかもしれない。
「私雨(わたくしあめ)」
限られた範囲にだけ降る雨のこと。おそらく、「私」という字から察するに、他の田んぼでは降ってないのに、自分の田んぼにだけ降るような雨のことなのだろう。逆に、山のふもとでは降らず、山頂だけに振る雨、つまり自分たちの田んぼや畑には振ってくれない雨を「我儘雨(わがままあめ)」というらしい。笑える。しかし大自然は自分の思い通りにはならないという「畏れ」の気持ちも同時に感じる。
「友風子雨」
これ、何のことかわかりますか?
「風を友とし、雨を子とする」と読み下す。そう、「雲」のこと。何とも粋な言葉。
「空に三つ廊下」
これも難しい。「廊下」を「ろうか」とひらがなにして、雨や天に関する動詞と組み合わせてみましょう。
「降ろうか」「照ろうか」「曇ろうか」。この三つの「ろうか」が同居している空模様のことだそうです。つまり、降るのか晴れるのかはっきりしない天気。面白いといえば面白いけど、何かちょいと野暮ったい感じ。
「雨を聴く」
雨音に耳を傾けることだが、同時に「静雨(せいう)」という言葉もあり、「静雨を聴く」なんて言葉を造語してみた。静雨は文字通り静かに降る雨のことだが、ほとんど無音の状態に耳を凝らすと、聴こえなかった音が聴こえたり、見えなかったものが見えたりするんじゃないか。「無」に想いを馳せることの大切さを改めて思う。
「雨露」
文字通り、雨と露のこと。家の花壇なんかで草花に水をやる道具を「ジョウロ」と言いますが、あれは漢字で書くと「如雨露」だそうで、「雨露の如し」ということだそうです。ぜんぜん知らんかった!
ここで大事なのは「雨」だけでなく「露」も入っていることですね。雨だけが恵みの水をもたらすのではなく、上述の「樹雨」の霧と同じく、水蒸気の塊が大地に落ちても同じ恵みの水だということ。昔の人にとっては、雨は雨だけを意味するのではなく、「水蒸気」全般を指していたのかも、なぁんて夢想してしまいました。
「雨女」
私は雨男だし、雨女も著者をはじめたくさんいるでしょうが、もとは妖怪の名前らしい。雨を呼び、人を助ける妖怪とか。
原型は卑弥呼ではないか。こないだ『サイエンスZERO』で「天気痛」が取り上げられていて、おそらく卑弥呼は天気痛の持ち主だっただろうと言っていた。雨が降る、つまり気圧が下がると頭や膝などが痛くなる。それを逆手にとって、痛みが出ると雨が降るサインだと雨乞いをする。すると本当に降ってくるので、民衆は「卑弥呼さまはやはり神様だ!」と感激し、強大な権力を得たのだろうと。天皇家も天気痛の持ち主が祖先なのかもしれない。ちなみに、降るべきときに降る雨を「霊雨(れいう)」と古人は呼んだそうな。
こんな素敵な本を書いてくださった佐々木まなびさんは、きっと恵みの雨をもたらしてくれる現代の妖怪なのでしょうか。私も雨男として、他人様に恵みの雨をもたらす妖怪になろうと思います。


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