『神木隆之介の撮休』最終回は、高田亮さんの脚本を瀬々敬久監督が演出した「遠くにいる友人」。
ゲストは仲野太賀。そしてその母親役の坂井真紀。この第8話は『神木隆之介の撮休』にふさわしい最終回であり、見事な着地を決めた奇跡のような傑作でした。(以下ネタバレあります)

仲野太賀が神木と同じ子役出身という設定なのだが、いまは役者を辞めて世界を放浪している。ひょっとして実家にいるかも、と神木が撮休を利用して会いに行くが、いるのは母親の坂井真紀だけ。
仲野太賀は子役のなかでは一番ディレクターやプロデューサーなど大人たちの命令をよく聞く子で、子役たちの親分的存在だった。なのに、命令される「客体」であることに飽き足らず、「主体」たろうとして実家のある山にこもり、脚本を書いていた。
神木は思い出す。仲野に「いつまでつまらないドラマなんかに出てんだ」と軽蔑するように言われたこと。自分の監督・主演で映画化するのだと豪語していたこと。でも書けなくて悩んでいたこと。途中まででも読ませてくれたらアドバイスできると言ったら拒絶されたこと。
ゲストは仲野太賀。そしてその母親役の坂井真紀。この第8話は『神木隆之介の撮休』にふさわしい最終回であり、見事な着地を決めた奇跡のような傑作でした。(以下ネタバレあります)

仲野太賀が神木と同じ子役出身という設定なのだが、いまは役者を辞めて世界を放浪している。ひょっとして実家にいるかも、と神木が撮休を利用して会いに行くが、いるのは母親の坂井真紀だけ。
仲野太賀は子役のなかでは一番ディレクターやプロデューサーなど大人たちの命令をよく聞く子で、子役たちの親分的存在だった。なのに、命令される「客体」であることに飽き足らず、「主体」たろうとして実家のある山にこもり、脚本を書いていた。
神木は思い出す。仲野に「いつまでつまらないドラマなんかに出てんだ」と軽蔑するように言われたこと。自分の監督・主演で映画化するのだと豪語していたこと。でも書けなくて悩んでいたこと。途中まででも読ませてくれたらアドバイスできると言ったら拒絶されたこと。
仲野太賀は母親の坂井真紀を喜ばせようとして「子役らしくない子役」を演じていたが、それがいやになり役者を辞めた。「母ちゃん、神木みたいになれなくてごめんな」と言って。
神木は彼の部屋に一冊の脚本が置かれているのを見つける。
『似てない二人』と題されたその脚本の登場人物表には、「兄:吉田健一(仲野の役名)、弟:神木隆之介」とある。どうやら二人だけしか出てこない映画らしい。どんな内容かはまったく説明されないが、タイトルがすべてを如実に物語っている。
大人たちの指示に唯々諾々と従うことで今日の地位を確立した神木と、彼とは真逆の自分。その葛藤を描いたものであろうことは容易に想像がつく。
どちらが正しいかは問題ではない。ただ、二人は違うということ。兄弟のように仲のよかった二人の子役がいまではぜんぜん違う方向へ行ってしまった。地理的な位置も違えば、社会的な位置も違う。どこまで行っても平行線。
そして、優秀な子役だった息子に期待し、いまも役者に戻ってほしいと願っている母親・坂井真紀の気持ちが、彼女の歌う『永遠の嘘をついてくれ』(中島みゆき作詞・作曲)によって雄弁に語られます。
「永遠の嘘をついてくれ いつまでも種明かしはしないでくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか」
ここでいう嘘とは「演技」のことですね。つまりずっと役者でいてほしかった。客体ではいたくなかった、などという種明かしはしてほしくなかった。一度は夢を見せてくれた君じゃないか。
「嘘をつけ永遠のさよならの代わりに」
「永遠の嘘をついてくれ。出逢わなければよかった人などないと笑ってくれ」
いまどこの国にいるのかもわからず、もしかしたら死んでいるかもしれない息子を想う気持ちに涙があふれました。

しかし、妙です。脚本が完成したのに、なぜ仲野太賀は放浪の旅に出たのでしょうか?
第1話「はい、カット!」とリンクする最終回

思えば、第1話「はい、カット!」も神木隆之介が子役出身であることを活かしたエピソードでした。あのときの感想で私はこう書きました。
凡百のプロデューサーならこの回を最終回にもってくるだろう、そうしなかったところにこの『神木隆之介の撮休』の野心があるのかもしれない、と。かもしれない、というのは、子役出身であることを第1話だけのファンタジックなホラーだけですませてしまうなら失敗だと思ったからです。
しかし、最終回において見事に期待に応えてくれました。単に子役仲間が出てくるというだけでなく、「俳優」という職能への讃歌にもなっているからです。
『永遠の嘘をついてくれ』がまるでこの作品のために作られた歌みたいにはまってますが、歌われている「嘘」「夢」というのは「演技」「作品」のことですよね。つまり「虚構」。
第1話「はい、カット!」では、いつまでも虚構から脱出できなくなった神木の恐怖を描いていました。幼少の頃から演技ばかりしていたからそうなったと同じ子役出身の安達祐実が解説していました。
この第8話では、虚構の世界から脱出した仲野太賀と脱出できない神木隆之介が対比されます。
仲野は客体ではなく主体でありたいと自作自演の作品を作るべく脚本を書いた。しかし、結局それも虚構にすぎない。彼はおそらく、脚本を書き終えたとき、自分は客体でいるのがいやなのではなく、嘘をつくのがいやなのだと気づいたのでしょう。
しかし、「嘘」とは何でしょうか?
例えば、ある結婚詐欺師が女性に近づいて恋心を抱かせるまで成功したとしましょう。いよいよこれから金をむしり取ろうとしたとき交通事故で突然死んでしまったら? 女性は彼が詐欺師だと知らない。甘い囁きのすべてが嘘だと知らない。本人が死んだ以上、彼女にとって彼の甘い囁きは「真実」になるのです。「永遠の嘘」ですね。種明かしをしなければ嘘は真実に変わる。
映画やテレビドラマなどのフィクションはそういう嘘=真実を売っている。俳優はそのための宣伝マンです。仲野太賀はそれがいやで辞めた。神木は辞めなかった。だからこの「遠くにいる友人」は、子役出身で大人になっても役者であり続ける道を選んだ神木隆之介への讃歌だと思うのです。同時に、嘘を嫌って役者を辞めた多くの子役出身者への「戻ってこい」というメッセージでもあるのでしょう。嘘が真実に変わることもあるのだから、と。
ただ、これだけなら「奇跡のような傑作」などとは言いません。
この作品を奇跡のような傑作たらしめているのは、坂井真紀の存在です。彼女の歌です。「永遠の嘘をついてくれ。出逢わなければよかった人などないと笑ってくれ」というフレーズはどこまでも哀しい。
この「遠くにいる友人」は『神木隆之介の撮休』の最終回として着地の足がずれまくっています。神木と仲野の対比だけで充分なところへ、メインテーマとは何の関係もない母親の想いを入れてきた。子役二人のドラマのはずが親子ドラマへとずれまくる。
しかし『永遠の嘘をついてくれ』という類まれな歌の力か、このずれはとても美しい。
母親の期待に応えるべく嘘を演じることに疲れ、自ら挫折する道を選んだ息子への、何と哀しい歌でしょうか。
神木は彼の部屋に一冊の脚本が置かれているのを見つける。
『似てない二人』と題されたその脚本の登場人物表には、「兄:吉田健一(仲野の役名)、弟:神木隆之介」とある。どうやら二人だけしか出てこない映画らしい。どんな内容かはまったく説明されないが、タイトルがすべてを如実に物語っている。
大人たちの指示に唯々諾々と従うことで今日の地位を確立した神木と、彼とは真逆の自分。その葛藤を描いたものであろうことは容易に想像がつく。
どちらが正しいかは問題ではない。ただ、二人は違うということ。兄弟のように仲のよかった二人の子役がいまではぜんぜん違う方向へ行ってしまった。地理的な位置も違えば、社会的な位置も違う。どこまで行っても平行線。
そして、優秀な子役だった息子に期待し、いまも役者に戻ってほしいと願っている母親・坂井真紀の気持ちが、彼女の歌う『永遠の嘘をついてくれ』(中島みゆき作詞・作曲)によって雄弁に語られます。
「永遠の嘘をついてくれ いつまでも種明かしはしないでくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか」
ここでいう嘘とは「演技」のことですね。つまりずっと役者でいてほしかった。客体ではいたくなかった、などという種明かしはしてほしくなかった。一度は夢を見せてくれた君じゃないか。
「嘘をつけ永遠のさよならの代わりに」
「永遠の嘘をついてくれ。出逢わなければよかった人などないと笑ってくれ」
いまどこの国にいるのかもわからず、もしかしたら死んでいるかもしれない息子を想う気持ちに涙があふれました。

しかし、妙です。脚本が完成したのに、なぜ仲野太賀は放浪の旅に出たのでしょうか?
第1話「はい、カット!」とリンクする最終回

思えば、第1話「はい、カット!」も神木隆之介が子役出身であることを活かしたエピソードでした。あのときの感想で私はこう書きました。
凡百のプロデューサーならこの回を最終回にもってくるだろう、そうしなかったところにこの『神木隆之介の撮休』の野心があるのかもしれない、と。かもしれない、というのは、子役出身であることを第1話だけのファンタジックなホラーだけですませてしまうなら失敗だと思ったからです。
しかし、最終回において見事に期待に応えてくれました。単に子役仲間が出てくるというだけでなく、「俳優」という職能への讃歌にもなっているからです。
『永遠の嘘をついてくれ』がまるでこの作品のために作られた歌みたいにはまってますが、歌われている「嘘」「夢」というのは「演技」「作品」のことですよね。つまり「虚構」。
第1話「はい、カット!」では、いつまでも虚構から脱出できなくなった神木の恐怖を描いていました。幼少の頃から演技ばかりしていたからそうなったと同じ子役出身の安達祐実が解説していました。
この第8話では、虚構の世界から脱出した仲野太賀と脱出できない神木隆之介が対比されます。
仲野は客体ではなく主体でありたいと自作自演の作品を作るべく脚本を書いた。しかし、結局それも虚構にすぎない。彼はおそらく、脚本を書き終えたとき、自分は客体でいるのがいやなのではなく、嘘をつくのがいやなのだと気づいたのでしょう。
しかし、「嘘」とは何でしょうか?
例えば、ある結婚詐欺師が女性に近づいて恋心を抱かせるまで成功したとしましょう。いよいよこれから金をむしり取ろうとしたとき交通事故で突然死んでしまったら? 女性は彼が詐欺師だと知らない。甘い囁きのすべてが嘘だと知らない。本人が死んだ以上、彼女にとって彼の甘い囁きは「真実」になるのです。「永遠の嘘」ですね。種明かしをしなければ嘘は真実に変わる。
映画やテレビドラマなどのフィクションはそういう嘘=真実を売っている。俳優はそのための宣伝マンです。仲野太賀はそれがいやで辞めた。神木は辞めなかった。だからこの「遠くにいる友人」は、子役出身で大人になっても役者であり続ける道を選んだ神木隆之介への讃歌だと思うのです。同時に、嘘を嫌って役者を辞めた多くの子役出身者への「戻ってこい」というメッセージでもあるのでしょう。嘘が真実に変わることもあるのだから、と。
ただ、これだけなら「奇跡のような傑作」などとは言いません。
この作品を奇跡のような傑作たらしめているのは、坂井真紀の存在です。彼女の歌です。「永遠の嘘をついてくれ。出逢わなければよかった人などないと笑ってくれ」というフレーズはどこまでも哀しい。
この「遠くにいる友人」は『神木隆之介の撮休』の最終回として着地の足がずれまくっています。神木と仲野の対比だけで充分なところへ、メインテーマとは何の関係もない母親の想いを入れてきた。子役二人のドラマのはずが親子ドラマへとずれまくる。
しかし『永遠の嘘をついてくれ』という類まれな歌の力か、このずれはとても美しい。
母親の期待に応えるべく嘘を演じることに疲れ、自ら挫折する道を選んだ息子への、何と哀しい歌でしょうか。
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