スキージャンプ混合団体で高梨沙羅がスーツの長さが超過していると失格になった問題は国際問題に発展しそうな気配ですし、日本国内ではもともと高梨に対して「メイクする暇があったら練習しろ」などという誹謗中傷があったこともあり、失格になった責任を取れなどとひどい言葉を浴びせる輩が跋扈し、高梨は謝罪文を公表。何とも痛々しい文面に胸が痛みました。
この問題に関してはスーツの長さを測る測定方法に問題があったから検査員が悪い、いや高梨が悪い、などと誰かを吊るし上げようとする論調が支配的ですが、私はそれには一切与しません。
すべてのスポーツを廃止せよ
私が主張したいことはもっとラディカルなことただひとつ。すべての競技としてのスポーツをいったん廃止せよ。これに尽きます。
私はサッカーが好きで毎週ラ・リーガを楽しみにしているし、もうすぐ再開される欧州チャンピオンズリーグも楽しみですが、「競技としてのスポーツ」というものをこの際、徹底的に考え直すべきときに来ていると感じます。
まず、スキージャンプでスーツの長さが決まっているのはなぜでしょうか?
余分な部分が長いほうが空気抵抗を受けられるからより高くより遠くへ飛べるからですよね。選手の身長や体重によってスキー板の長さも厳密に決められています。
すべては「数値」です。球技では相手より1点でも多く得点すれば勝ちだし、スキーや陸上ならより速く、より高く、より遠く、できるだけ高い数値を出せば勝ち。フィギュアスケートやスノボーなど数値化できないスポーツですら「採点」という人間の主観によって数値化してしまう。
でも、それって楽しいんですかね? いや、見ている我々じゃなくて選手がですよ。日大フェニックスの悪質タックル問題もすべては相手より多く得点するため、失点を少なくするために「クォーターバックをつぶせ」と指示したことで起こった悲劇でした。「つぶせ」という言葉にこめられた意味について、監督と選手では違った見解が示されていましたが、いずれにしても、心からアメフトというスポーツを楽しんでいたら「つぶせ」なんて言葉は絶対出てこないですよね。
スポーツを楽しむ
オリンピックなど国家代表として出場している選手に対し、楽しむことを良しとしない風潮がいまでもあります。
カーリングで出場経験のある本橋麻里は現在コーチとして「オリンピックに出場するまでにみんな死ぬほど頑張ってきたんだから、ここから先はいっぱい楽しんでおいで」と言って選手を送り出したそうです。
それは素晴らしいことだと思うけれど、わざわざそんなことを言わねばならないほど選手たちは「結果を出さなくてはいけない」と悲壮感にまみれ、負けると叩かれる。本橋麻里は選手時代に「負けたけど楽しかった」と言ったら叩かれたそうですが、おかしくないですか? 私も昔、野球、サッカー、バドミントンをやってましたが、負けたけど楽しかった試合はたくさんありましたよ。いまもファンとして、サッカーやテニスで応援しているチーム・選手が負けたけど面白かったと言える試合は腐るほどあります。
みんな「結果」ばかり見すぎなのです。
結果より過程が大事
数年前に働いていた会社の社長と二人で車に乗っていたとき、いろいろ仕事の話をしていたら社長が「仕事って結果じゃないですか」と言ってきました。私は「そうでしょうか」と答えると、「じゃあ過程なんですか? いくら過程がよくても結果が出ないと会社はやっていけません」というので「両方大事じゃないですか? 結果と過程を対立概念と捉えるのがそもそもの間違いだと思います。どちらも大事じゃないでしょうか」と答えると黙りました。
でも、いまならもっと突っ込んだことを言うでしょう。結果より過程が大事、と。
先日、実家の愛犬が死に、父親も進行性の心不全でもう治せないと言われ、それが原因でまだ元気だった母親も体調を崩しました。一気にみんな死ぬのではないかと不安に駆られ、そんな私もいつの間にか50歳の大台に乗り、体力の衰えを感じる日々。
そんな現実を前にすると、「どんな人生を送っても最後はみんな死ぬ」という当たり前のことを初めて体で実感できました。いままでは理屈でわかっていただけ。人生の「結果」は死です。結果はあらかじめ決まっている。そして人生は死という結果までのプロセスなのです。まるごと。
ならばそのプロセスを楽しまなければ損。結果を出そう結果を出そうとあくせくしたって、それも人生という壮大なプロセスの一部でしかない。
だから、数値という結果によって勝敗を決めるのはやめにしませんか? というのが私の提案。
「楽しんでおいで」と強調されないと楽しめないなんて絶対どこかおかしい。「負けても楽しかった」と言ったら批判されるなんて間違っています。失格になったら何の関係もない人にまで謝罪しないといけないなんて狂っています。
すべての競技としてのスポーツをいったんすべて廃止にして、みんなで「競技じゃないスポーツ」を楽しみましょう。お金を賭けない麻雀みたいなもんですかね。私も昔は「賭けない麻雀なんかできるか!」とか言って賭けたくない連中を軽蔑していましたが、あの伝説の雀鬼・桜井章一だってもうだいぶ前から金を賭けない純粋な麻雀を楽しみ、プロセスをとても大事にした指導を若い人たちに施しています。
だから、いったん競技としてのスポーツを廃止しましょう。数値化するスポーツ、結果重視のスポーツという概念をこの世から排除する。その先に新しい「競技」が勃興するかもしれません。
何だ、結局また競技としてのスポーツを再開するのか。じゃ、いったんやめる意味なんてないのでは?
と思った方は以下の記事を読んでみてください。私が言っているのは「新しい競技」です。それが「スポーツ」とはかぎらない。いまのスポーツは(スポーツだけじゃなく囲碁・将棋などの競技も)男尊女卑の考え方が基礎になっていると思うんですよね。数値化できる競技はすべて男性が優位ですが、女性優位の競技はいっさい数値化できない。
競技としてのスポーツをやめることは、ジェンダーの観点からも有意義なものになると思います。
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排除された競技と森喜朗女性蔑視発言(「競技」を再考するために)
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すべてのスポーツを廃止せよ
私が主張したいことはもっとラディカルなことただひとつ。すべての競技としてのスポーツをいったん廃止せよ。これに尽きます。
私はサッカーが好きで毎週ラ・リーガを楽しみにしているし、もうすぐ再開される欧州チャンピオンズリーグも楽しみですが、「競技としてのスポーツ」というものをこの際、徹底的に考え直すべきときに来ていると感じます。
まず、スキージャンプでスーツの長さが決まっているのはなぜでしょうか?
余分な部分が長いほうが空気抵抗を受けられるからより高くより遠くへ飛べるからですよね。選手の身長や体重によってスキー板の長さも厳密に決められています。
すべては「数値」です。球技では相手より1点でも多く得点すれば勝ちだし、スキーや陸上ならより速く、より高く、より遠く、できるだけ高い数値を出せば勝ち。フィギュアスケートやスノボーなど数値化できないスポーツですら「採点」という人間の主観によって数値化してしまう。
でも、それって楽しいんですかね? いや、見ている我々じゃなくて選手がですよ。日大フェニックスの悪質タックル問題もすべては相手より多く得点するため、失点を少なくするために「クォーターバックをつぶせ」と指示したことで起こった悲劇でした。「つぶせ」という言葉にこめられた意味について、監督と選手では違った見解が示されていましたが、いずれにしても、心からアメフトというスポーツを楽しんでいたら「つぶせ」なんて言葉は絶対出てこないですよね。
スポーツを楽しむ
オリンピックなど国家代表として出場している選手に対し、楽しむことを良しとしない風潮がいまでもあります。
カーリングで出場経験のある本橋麻里は現在コーチとして「オリンピックに出場するまでにみんな死ぬほど頑張ってきたんだから、ここから先はいっぱい楽しんでおいで」と言って選手を送り出したそうです。
それは素晴らしいことだと思うけれど、わざわざそんなことを言わねばならないほど選手たちは「結果を出さなくてはいけない」と悲壮感にまみれ、負けると叩かれる。本橋麻里は選手時代に「負けたけど楽しかった」と言ったら叩かれたそうですが、おかしくないですか? 私も昔、野球、サッカー、バドミントンをやってましたが、負けたけど楽しかった試合はたくさんありましたよ。いまもファンとして、サッカーやテニスで応援しているチーム・選手が負けたけど面白かったと言える試合は腐るほどあります。
みんな「結果」ばかり見すぎなのです。
結果より過程が大事
数年前に働いていた会社の社長と二人で車に乗っていたとき、いろいろ仕事の話をしていたら社長が「仕事って結果じゃないですか」と言ってきました。私は「そうでしょうか」と答えると、「じゃあ過程なんですか? いくら過程がよくても結果が出ないと会社はやっていけません」というので「両方大事じゃないですか? 結果と過程を対立概念と捉えるのがそもそもの間違いだと思います。どちらも大事じゃないでしょうか」と答えると黙りました。
でも、いまならもっと突っ込んだことを言うでしょう。結果より過程が大事、と。
先日、実家の愛犬が死に、父親も進行性の心不全でもう治せないと言われ、それが原因でまだ元気だった母親も体調を崩しました。一気にみんな死ぬのではないかと不安に駆られ、そんな私もいつの間にか50歳の大台に乗り、体力の衰えを感じる日々。
そんな現実を前にすると、「どんな人生を送っても最後はみんな死ぬ」という当たり前のことを初めて体で実感できました。いままでは理屈でわかっていただけ。人生の「結果」は死です。結果はあらかじめ決まっている。そして人生は死という結果までのプロセスなのです。まるごと。
ならばそのプロセスを楽しまなければ損。結果を出そう結果を出そうとあくせくしたって、それも人生という壮大なプロセスの一部でしかない。
だから、数値という結果によって勝敗を決めるのはやめにしませんか? というのが私の提案。
「楽しんでおいで」と強調されないと楽しめないなんて絶対どこかおかしい。「負けても楽しかった」と言ったら批判されるなんて間違っています。失格になったら何の関係もない人にまで謝罪しないといけないなんて狂っています。
すべての競技としてのスポーツをいったんすべて廃止にして、みんなで「競技じゃないスポーツ」を楽しみましょう。お金を賭けない麻雀みたいなもんですかね。私も昔は「賭けない麻雀なんかできるか!」とか言って賭けたくない連中を軽蔑していましたが、あの伝説の雀鬼・桜井章一だってもうだいぶ前から金を賭けない純粋な麻雀を楽しみ、プロセスをとても大事にした指導を若い人たちに施しています。
だから、いったん競技としてのスポーツを廃止しましょう。数値化するスポーツ、結果重視のスポーツという概念をこの世から排除する。その先に新しい「競技」が勃興するかもしれません。
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と思った方は以下の記事を読んでみてください。私が言っているのは「新しい競技」です。それが「スポーツ」とはかぎらない。いまのスポーツは(スポーツだけじゃなく囲碁・将棋などの競技も)男尊女卑の考え方が基礎になっていると思うんですよね。数値化できる競技はすべて男性が優位ですが、女性優位の競技はいっさい数値化できない。
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