アカデミー賞の新基準
2020年9月にアメリカの映画芸術科学アカデミーがアカデミー作品賞の対象となる作品の新基準を打ち出しました。

「ロサンゼルスで連続7日間以上劇場で上映された40分以上の長編フィクション映画」のみだった従来の基準に、人種的マイノリティや性的マイノリティなど、少数派への差別を是正する狙いのある基準が加わりました。

主演もしくは助演俳優の一人がアジア人やヒスパニック系、アフリカ系アメリカ人、ネイティブアメリカンなど少数派の人種の俳優であることとか、物語やテーマが女性やLGBTや人種、障碍者などマイノリティに関することとか。

でもそれらの基準をすべてを満たさないといけないわけではなく、4つのうち2つとか、2つのうち1つとかなので、マイノリティに関する物語でなくてもいいし、主要キャストが全員白人男性であっても基準をクリアすることは可能です。(批判は浴びるでしょうが)

なぜ1年以上も前の、それも世間から非難されたこの新基準をこのたび読み直してみたかというと、高山明さんという演劇人の『テアトロン』という本を読んだからです。


変えるべきは「客席」のほうだ
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「テアトロン」とは「シアター」の語源となった古代ギリシア語で、「客席」を意味するそうです。そうなのです。「劇場」とは舞台ではなく「客席」のことなのです。これだけでも目からウロコ。

高山さんはこんなことを言っています。


「社会問題を扱うのが最上とされる現代演劇が実のところ目指しているのは社会の変革ではなく『社会の去勢』である。問題を扱うことをよいことであると無自覚に捉え、誰もがわかっていることを『問題』として改めて固定する。その構造自体が問題ではないのか。観客は固められた秩序の中で、楽しく安全に舞台上の『問題』を鑑賞する。多様化が進められるのはもっぱら舞台上で、客席は相変わらず同じような人たちばかりである。雑多な人たちが混在し、攪乱されるべきは客席のほうなのに、既存の秩序は揺さぶられることがなく、演劇は毒にも薬にもならない代物に成り下がってしまった」


文中の「演劇」を「映画」に置換して読めば、アカデミー作品賞新基準にまるまる当てはまりますね。

今回、新基準全文を読んでみると、AからDまである条項の最後のDが「観客の育成」だと初めて知りました。

しかしそれは「マーケティングや宣伝・流通チームの幹部に女性や黒人・ヒスパニック系などの人種マイノリティ、LGBTなどの性的マイノリティ、あるいは障碍者がいること」というもので、これが本当に「観客を育成」することになるのでしょうか?

確かに、製作チームにマイノリティの幹部がいたり、出演者の30%がマイノリティで満たされていたり、主役にマイノリティが配されたり、物語がマイノリティに関するものであれば、できあがる映画は「マイノリティのための映画」になるかもしれない。でも、だからといってそれが即「観客の育成」につながるとは思えません。

映画はしょせん「虚構」です。いくら正しいことを描いても虚構なのです。でも客席に座っている観客は「現実」を生きています。


劇場とは動員/排除のシステムから成る
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 こういう観客席を作るべきですよね。

ムスリムがおり、白人男性も女性もおり、黒人もいる。

だからといって、観客を選別することはできませんよね。「もう白人が40%入ってしまったのでこれ以上白人の方は入れません」などと言ってしまったら暴動が起こるでしょう。

高山さんはこうも言っています。

「劇場とは、動員/排除のシステムにより『観客』を作り出す装置である。劇場は無意識にせよ意図的にせよ、動員/排除のシステムによってある種の人たちを動員し、別の人たちを排除する」

日本ではもうやくざ映画が作られなくなりました。90年代ならまだ少しは製作・上映されていました。やくざ映画に駆けつけるのは「その筋らしき人・その筋に近い人」がとても多かった。

でも、やくざ映画が上映されなくなると、そういう人たちを映画館で見かけることがほとんどなくなりました。まるでもう存在していないかのように。

だから、映画の内容が変われば「動員/排除のシステム」によって新しい観客を生み出す契機になる。しかし、それは同時にこれまでの観客を排除する可能性にも満ちていることにもっと自覚的であるべきです。

確かに、これまでマイノリティに配慮する映画が少なかったから彼らを観客として排除していたかもしれない。だからといってマイノリティで客席が埋まっても意味がない。マイノリティとマジョリティが、まったく違う価値観をもった人間同士が隣り合って同じ物語を享受する、そんな「客席」を作らないといけないのに、映画芸術科学アカデミーがやっていることは、「私たちはPC的に正しい」という「アリバイ作り」にしか見えません。そんなことをやっていたら映画が「毒にも薬にもならない代物」に成り下がる日はそう遠くないでしょう。


映画はもう「客席」を必要としていない?
彼らが「観客の育成=客席を作り替えること」にあまり関心がないのには、二つの理由が考えられます。

まずひとつ目は、物語や出演者をマイノリティ寄りにすれば観客を育成することになると能天気に信じ込んでいる。これは大いに可能性があります。

でももっと可能性が高いと思われるのが二つ目です。

「もう映画は『客席』を必要としていない」

つまり、配信会社による映画が映画界を席巻している現状では、早晩だれも映画館まで行って映画を見ないだろう、ということ。昔の映画もほとんど配信で見られている、つまり「家で独りで見る」「家族で見る(そこには均質の人間しかいない)」という鑑賞スタイルの変化によって「客席」なるものは消滅する。

演劇なら劇場は消えないでしょうが、映画館はどうなるか。配信会社がぐんぐん成長し、さらの新型コロナが襲ってきた年に新基準が打ち出されたのは象徴的です。

映画芸術科学アカデミーも「劇場公開された映画だけが対象」と言ってましたけど、コロナ禍で去年も今年も特別に配信だけの作品も対象になっています。これを奇貨として、なし崩し的にコロナ終息以降も配信のみの映画も対象になる可能性は高いと思われます。


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このような理想的な客席が世界中で実現する日は来るのでしょうか。いや、実現しなければ。アカデミー賞新基準はそのためにはあまりに不充分すぎます。


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テアトロン: 社会と演劇をつなぐもの
高山明
河出書房新社
2021-07-22






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