高山明さんという演劇人が著した『テアトロン 社会と演劇をつなぐもの」(河出書房新社)を読み、大いに刺激を受けました。


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Jアート・コールセンターというコールセンター
著者は、日本中を分断した「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」で俗に「電凸」と呼ばれるクレーマーからの電話に対処すべく、アーティスト自身が受電オペレーターとなって彼らと対話する「Jアート・コールセンター」というコールセンターを立ち上げました。

その名の由来は何か。

「アートはアクティヴィズムではないという主張と、アートは政治的アクティヴィズムであるのに手ぬるすぎてお話にならないという主張があり、後者の立場に立つ人たちは政治的になれないヤワな日本的アートということでJアートと揶揄されている」

なるほど、Jアートってそういうことなんだ、と思ったら実は違うんですね。

「『Jアート』と揶揄されるときにイメージされているであろう『弱さ』『甘さ』『手ぬるさ』を『柔軟さ』『情』『大らかさ』に変換して、対立や断絶を粘り強い対話や交渉によって乗り越えていくことに賭けたいと思った。そんなわけで、あいちトリエンナーレのテーマでもある『情の時代』の『情』から頭文字のJをとって『Jアート・コールセンター』と名づけた」

なるほど。では、著者が電凸に対するにあたって「弱さ」や「甘さ」を根底に据えたのはなぜか。

「コールセンターを立ち上げるときは、自分の意見で相手を説得してやろうと意気込んでいたが、それは違うと思うようになった。自分は正しいと前提して会話をするのはコミュニケーションではない。説得しようとすれば対立は激化し、分断は深まる」

「ただ対立を煽り、分断を深めるだけのやり方では、敵と味方に分かれて勝ち負けを争う政治闘争や法廷闘争と同じではないか。自分たちの正当性が頑なに主張され、政治的な手練手管が駆使され、闘争に勝つことだけが至上命題とされる。私はそこに『正しさの暴力』しか見ることができなかった」

「ただ相手の語りにじっと耳を傾ける。だんだん、自分が相手を移す鏡のようになってくる。受け身の態度に徹することで、相手が自分自身の言葉を反芻するようになる。そのほうが説得などよりよほど有効なのではないか」


Jアート・コールセンターという演劇
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「電話の相手と一対一で話しているのだが、同時に同じ空間にいる人と状況をシェアしているという感覚もあった。自分の声が電話の相手だけでなく周りの人たちにも聞かれている。自分を突き放して見つめることができた」

演劇人がコールセンターをやるのだから、このような感慨が生まれるのは当然でしょう。予想の範囲内でした。

しかし、オペレーターがマニュアルを作りながらそのマニュアルなどなかったかのように3時間以上も同じ相手と話し続けたりするなか、とても面白い現象に気づいたと著者は言います。

「ツイッターに流れる常套句をパッチワークしただけの、それこそマニュアルに従って喋っているのではないかと思われる人もいた」

その人は自分の言葉で語っていないのですね。ネット上の言説を台本としてそれをそのまま喋っている。

まったく別のところで、著者は「乱数」を発生させることの大切さを説いています。

「正常な人ほどランダムな数字を言うことができ、統合失調症患者は乱数を言おうとしても123456789という規則に則ることしかできない」

相手が正常な人なら話はランダムに枝分かれしていろんなことを言い合うのでしょうが、台本通りに喋る人は、台本という規則に縛られているわけですね。

この本の後半は著者が演劇史を自分なりに捏造し、未来の演劇を模索するプロセスが語られるんですが、歴史上もっとも成功した演劇として、著者はナチスの第6回党大会を挙げます。映画ファンなら知っているでしょう。レニ・リーフェンシュタールが『意志の勝利』というドキュメンタリー映画にまとめたあの大会です。

「ナチスやドイツ民族や第三帝国は演劇的な同化によって『身体』を獲得した」

つまり、ナチスに熱狂した当時のドイツ国民は統合失調症患者と同じく、乱数を言えない状態だったというのです。考えてみればそうですよね。多くの人間が一糸乱れぬ動きをするマスゲームは、いまなら北朝鮮などの独裁国家でしかできません。ナチスは北朝鮮より凶悪でした。

それに抵抗したのがブレヒトで、ナチスが参照したであろう観客にカタルシスを与えることを至上命題とするアリストテレス的演劇、劇的演劇を否定しました。

「ブレヒトは観客をリラックスした散漫な状態に置くことで宗教的な魔法にかからないように『客席』を組織した」


観客さえいれば演劇は成立する
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著者はまさにJアート・コールセンターでブレヒトを実践したわけですね。自分の喋りを周りに聞かれ、周りの喋りを観客として聴く環境のなかで、こう言われたらこう返すというマニュアルを放棄し、ただ耳を傾ける、たまには自分の意見を滔々と述べる、という乱数を発生させることで、「説得というカタルシス」に陥ることを避けた。

「通常、『いい演技』とは役者の存在が透明なものを言う。役者の素が出てしまってはいけない。しかしブレヒトはそのような演技論に異を唱えた。役と同一化したり感情移入することを禁じた。役と距離を取り、役者である自分がその役に対しての判断を示したりすべきだと考えた」

Jアート・コールセンターで著者たちが演じたのは自分自身です。それはブレヒトに倣えば自分自身を考察や批評の対象とすることです。そして、観客として他のアーティストの演技を考察することもあったでしょう。著者が新しい演劇として作りつつある「客席から舞台へ参画する演劇」の萌芽が、クレーマーと電話で対話するコールセンターという一見演劇とは何の関係もなさそうに場にあったという驚き。

「古代ギリシアでは劇場の客席部分を『テアトロン』と呼んだ。『見物席』を意味する言葉がシアター、つまり劇場を意味するようになり、演劇一般を意味するようになった。シアターや演劇と聞いて普通の人が思い浮かべるのは舞台のことだろうが、元をたどると実は観客席のことだったのである

「あいちトリエンナーレには間違いなく『テアトロン(客席)』が存在した」

この本の副題は「社会と演劇をつなぐもの」ですが、オーラスに至って、その本当の意味が明らかになります。

「都市の中にテアトロン(客席)を拡張し、あるいはインストールすることができれば、身近な町がそのまま『舞台』になる。そうなれば舞台作品を鑑賞する必要がなくなる。なぜなら、自分が置かれた状況や場所に『演劇』を見出す観客さえいれば演劇は成立するからである」

うーん、深い。

演劇さえ見出す観客がいれば演劇は成立する。だから究極の演劇は作者のいない演劇なわけですね。Jアート・コールセンターのように。


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テアトロン: 社会と演劇をつなぐもの
高山明
河出書房新社
2021-07-22



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