バカ丸出しの文部科学省は、法律や契約書の読解力涵養のために、高校で教える国語を「現代の国語」と「言語文化」に分け、文学や古文、漢文などは後者で扱い、前者では文学などを教科書に載せない、載せた教科書は検定で落とすと言っていたのに、実際に検定で合格し、全国の高校が採択した教科書で16.9%ものシェアを達成したのは、広島の第一学習社のもので、芥川龍之介の『羅生門』など小説を5点載せているというニュースが目を惹きました。


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競合他社は「小説を載せた教科書は原則として認めない」と言っておきながら載せたものを合格させた、文科省への信頼は失われた、とお冠らしい。

それは当然とはいえ、私はやはり文学作品を載せない国語教科書なんて意味がないと考える人間だから快哉を叫びましたね。

文科省のお偉方とか自民党など政権の幹部たちは「人文系の学問は無意味」などとバカ丸出しのことを言ってるけど、実際に教科書検定に当たる文科省の現場の役人たちや、高校の現場の教師たちは「文学なしで国語を教えることはできない」と考えていたということであり、「そうでなくっちゃ!」と久しぶりにいいニュースに出逢い、この国もまだまだ捨てたものではないと思いました。

そもそも、法律や契約書を読解するのに「国語力」が必要ですか? そりゃ少しは必要だけど、それよりは「数学」の力でしょ? 論理的な文章を書いたり読んだりするためには論理学である数学の力が何より必要です。

A=B、B=Cならば、A=Cである。

「AならばBである」が真ならば、AはBであるための必要条件、BはAであるための充分条件という。

「AならばBである」が真でも、その逆「BならばAである」は必ずしも真ではない、そして対偶「BでないならAでない」は必ず真である。


というような論理学の基本を扱うのは昔から数学の教科書です。数学を学ばないかぎり法律の条文も契約書の読解もままなりません。

契約書を読めるための素養など身につけずとも、文学が読めれば契約書だって読めるはずだから、文学だけ教えたらいいと思うんですがね。契約書が読めても文学が読めるとはかぎらないが、文学が読めるなら契約書は読める。さて、文学が読めることは契約書が読めるための何条件?

というようなことを数学の時間に徹底的に叩き込めばいいのであって、国語の時間はやはり文学作品を扱うべきでしょう。

そもそも高校の「国語」の時間って文字通り国語、つまり日本語を勉強する時間じゃないですよね?

こういうと驚く人がいますが、国語は日本語の時間じゃないですよ。小中学校では日本語の時間といっていいけど、高校の国語は違う。言葉を手掛かりに、人の気持ちや心理を探究したり、この世界をどう見るか、その目を養う時間です。

「現代の国語」は、だから「教育」ではないのです。法律や契約書の読解などを教えたいならそういう専門学校を作ればいい。普通の学校で教えることではない。

というようなことを文科省の人間や、現場の教師も同じように思っていたことが今回わかった。そのことに私は深い安堵を覚えるのです。慶賀。


文学こそ最高の教養である (光文社新書)
光文社古典新訳文庫編集部
光文社
2020-07-15



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