内田樹先生の『武道論 これからの心身の構え』(河出書房新社)を読んでいて、開いた口がふさがらなくなりました。


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何でも、最近の親で「学校給食で『いただきます』と言わせるのは理不尽だ」という人が増えているんですって。

彼らの言い分は、「給食費はちゃんと払っている。だから誰かに『いただく』わけではない」ということらしい。

つまり、カネですね。その食事のカネを誰が払っているか。もし親以外の人が払っているなら「いただきます」と言うが、親が払っている以上は言う必要はない、と。


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いつからでしょうか。「いただきます」がカネにまつわる挨拶と化してしまったのは。

昔、働いていたレストランで、昼も夜も賄いがついていたんですが(飲食店でついてないところのほうが珍しいけど)食べる前に「いただきます」と言うと、必ず支配人が「はい!」と返事するのがすごくいやでした。そりゃ確かに会社のカネで食わしてもらってるし、作ってくれたのもチーフ(フランス語でいえばシェフ)だけど、本来「いただきます」というのは作ってくれた人に対して言う言葉じゃないし、それこそカネを出した人間に向かって言う言葉でもない。おまえに言ってるんじゃねーよ! と毎日思ってましたね。(いまにして思えば懐かしい話ですが)

こんなことを言うと決まって女性がいやな顔をしますが(最近は男も嫌がる)食べ物は自分以外の生物の死骸ですよね。これはとても大事なことです。我々は他の生き物の命をいただいて毎日を生きている。


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だから、料理と自分の間に箸を横に置くのです。

生きている自分と死んだ命の間に結界を張る。そして、その結界を解いて、死んだ命を生きた命である自分の中に取り込む。そのための呪文が「いただきます」です。

だから、仮に自分が稼いだ金で買った食材を自分で調理して食べるときでも「いただきます」を言わないと死んだ命から呪われますよ。「いただきます」は呪文ですから。言うべき呪文を言わないと逆に自分が呪われてしまう。

私はほぼいつも孤食ですが、ちゃんと「いただきます」を言っています。だいぶ前の『ホンマでっかTV』で、独りで食べるときも「いただきます」と「ごちそうさまでした」を言うとご飯がおいしくなると言っていました。

私は呪文を唱えるからといっておいしくなるとは別に思わないけど、呪われるのはいやだから言っています。宗教儀礼はとても大事です。

なのに、いまはカネが基準になっている。資本主義が暴走し、新自由主義が行き着くところまで行った結果が宗教の軽視。これは由々しきことです。人々は自分で自分を呪ってしまっている。

もういい加減そういうのはやめにしたほうがいい。

まずは食べる前に、地球の裏側で今日食べるものもなく飢え死にする子どもがたくさんいることを頭に浮かべてみてはいかがでしょうか?

それだけでも「いただきます」を言わないわけにはいかなくなるだろうし(それでも言いたくならない人に対する処方箋は私には発行できません)自分のために死んだ命への感謝の気持ちも少しは嵩じるでしょう。

感謝と呪文。そういう「数値」には換算できないものを大事にしたい。数値に換算できるものなんてしょせんその程度のものです。そんなものを基準に生きるのはやめたほうがいい。不幸になるだけだから。






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