内田樹先生の『武道論 これからの心身の構え』(河出書房新社)を読んでいて、雷に打たれたような感覚に陥りました。


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内田先生がパリのオルセー美術館に行ったときのこと。印象派の傑作を集めた上層階に入って一人で展示を見ていると、部屋の中ほどまで進んだところで背後に気配を感じて振り返ったらゴッホの『ひまわり』が飾ってあった。

「画布に塗られた絵の具の凹凸が皮膚にじかに触れてくるような手触りのはっきりした波動をそのときには感じた」

この一節を読んですぐ想起したのは、蓮實重彦の「映画は触覚芸術である」という言葉でした。


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蓮實の強い影響を受けた加藤幹郎さんも「フィルムの肌理」なんて言葉をよく使っていました。

長らく私はこの言葉の意味が、理屈としてはわかるけど、腑におちなかったんですよね。でも今回、初めて体得できた気がします。


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彫像は誰の目にも明らかな触覚芸術ですよね。地元の県立美術館では藤田嗣治の彫像など収蔵作品なら自由に触らせてもらえるんですが、単に見るだけじゃなく、触って凸凹を肌で感じると目で見るだけよりいろんなことを体感できる。

映画のスクリーンを触ったところでフィルムの肌理なんてわからないし、フィルムそのものを触ったところでわかるわけでもない。だからわからなかったんですが、内田樹先生の言葉で補助線を引くとよくわかる。

彫像を鑑賞するときとは違って、我々観客から映画に触れるのではなく、映画のほうから我々に触れてくるんだと思うわけです。ゴッホの『ひまわり』が内田先生に波動を出していたように。

映画が出す波動を肌で感じる。それが映画の肌理というやつなわけですね。こんな簡単なことがわからなかったなんて、私はいまだに映画を頭で見ているんだなぁと恥じ入りました。

映画は触覚芸術である。蓮實の言葉は100%正しい。何だかんだ言ってもあの男の言葉には真理があると改めて思った次第。





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