新しい会社で働いています。

まだ入ったばかりで右も左もわからない状態で、初日は「マニュアル読んでて」と言われて読んでましたが、何もせずにマニュアルを読んでも、何がわからないのかすらわからない。ま、いまはちょっとずつ実務を憶えていってますが。

で、初日からずっと仕事しながら「人間にとって労働とは何か」を考えていました。


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昨日、仕事が終わったあと歯医者に行ったんですが、先生とのやりとりで自分の言葉がちょっと前に比べて弾んでたんです。

やはり、仕事が決まるとそれだけで生き生きしてくるらしい。まだ半人前以下の仕事しかできないのに、それでも何らかの職業に就いているというのは人間にとってとても大事らしい。

なぜ仕事をするかというと「生活の糧」を得るためと答える人が多いでしょう。以前の私もそう思っていました。でもいまは違います。

生活の糧、つまりカネを得るためなら、なぜ言葉が弾むのでしょう? そりゃ給料日には給料が入るからそれを考えると楽になる、ホッと安堵する、それはわかります。でも言葉が弾むのはそれだけではないはずですよね。

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やっぱり、労働の本質というのは「社会との関わりをもつ」ということだと思う。私はもう10何年前のことだけどニートだったことがあって、引きこもっていました。

「引きこもり」というと映画やテレビドラマで出てくる引きこもりってカーテンを閉め切った薄暗い自室から出てこない人ばかりなので、ああいうのだけを「引きこもり」というのかと思ってました。以前の職場で一緒だった若い女性がその職場を辞めた、いまは休養中というので、「引きこもってるの?」と訊いたら「違いますよ! めっちゃ買い者とか行ってますよ」と怒ってました。

でも、それは違うんですよね。引きこもりとは「社会との関わりをもたない人」のことなので、買い物で家を出るのは引きこもりじゃないことにはならない。同様に、私はニートだった頃、映画館にだけはよく出入りしてましたが、それもやっぱり社会との関わりがない。だから、テレビで見る引きこもりとはずいぶん見た目や雰囲気が違うけど、私も知り合いの女性も「引きこもり」だったわけです。


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引きこもりを解消すべし! と主治医からきつく言われた言葉をいまでも憶えています。

「あんたは社会に出ていかんとアカン。毎日同じ時間に起きて同じ場所に行って同じ人たちと仕事をする。いくらシナリオを書きたくても帰宅するまでは我慢する。とにかく同じ時間に起きて同じ場所に行って同じ人たちと同じ仕事をして同じような話をする。毎日毎日ルーティンワークをする。そういう体を作りなさい」

あの頃はそれが億劫でしょうがなかったけど、逆にいまは同じ時間に起きて同じ場所に行かないと落ち着かない。落ち着かないから心が浮き足立ってしまう。給料がなくても失業保険はあった。別にカネの心配はなかった。でも先月、鬱になったのは、実家の愛犬が寝たきりになったことへの沈痛もあるのでしょうが、やはり同じ時間に起きて同じ場所に行く、そういう場を得たのが大きいと思う。(勤務初日の前日まであまり眠れなかったのが、初日の夜から嘘のように眠れるようになったのでね)

労働の本質は、だからカネにあるのではなく、社会との関わりをもつことにあるわけです。



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コロナ禍になってもうすぐ2年ですが、この間リモートワークする人がかなり増えました。

ちょっと前の求人で、すごくいい条件で、しかも私のような学歴も職歴もパッとしない人間でも務まりそうな仕事があったんですよ。でも、「研修期間だけ会社に出社、研修が終われば自宅でリモートワーク」と書いてあったので、応募しませんでした。

そのときは上述したようなことを言葉にして考えていたわけではないけど、体が拒否していました。同じ時間に起きて同じ場所に行って同じ人たちと……というのがないので、そんなところで働いて結構なカネを稼げても歓びがないだろうな、と頭ではなく体が訴えてました。

リモートワークでかなりの人がストレスを溜めているらしいですが、それはやはり「同じ時間に起きて同じ場所に行って同じ人たちと話をして~」という労働の本質から外れているからじゃないですかね? 四六時中、奥さんや旦那と一緒にいなければいけないとか、そういうリモートワークに付随するあれやこれやはたぶん二次的なもので、まず何よりもリモートワークという仕事の仕方自体が「労働の歓び」を労働者から奪っているのだと思う。

失業してても、面接が立て続けにあるときは、それだけで体調が上がっていた気がします。面接は、同じ時間に起きて同じ場所に……とは違うけれど、フォーマルな場なので「社会との関わり」を感じさせてくれるのでしょう。逆に、書類審査で落ちてばかりのときは面接がないから社会から孤絶して、ただでさえ病んでいる心をさらに傷めていた。

生活に必要なカネを稼ぐのは必須ですが、それ以上のカネとなると不要でしょう。そりゃたまに贅沢するくらいのカネはほしいだけど、それ以上のカネを得るより、毎日同じ時間に起きて同じ場所に行って同じ仕事をする人たちとの「和」があれば、それでいい。逆にそれがないなら、いくらいい条件でもご免こうむりたい。

労働はカネを得るための「手段」ではあるけれど、同時に「目的」でないといけないと思う。つまり、労働で得たカネで享楽を買うだけでなく、労働そのものが楽しいという状態。

でも、いまのこの国でそういう考え方は少数派のようです。


労働とは不自然なものである
内田 樹
Audible Studios
2016-08-17



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