『リトル・ガール』(2020年、フランス)
監督:セバスチャン・リフシッツ
出演:サシャ、サシャの母、父、姉、兄、医師
男の子として生まれながらも、心は女の子のサシャというトランスジェンダーの子どもをめぐるドキュメンタリー。
これが実に美しく、切なく、そして温かい映画でした。
性別の決め方
フランスの法律は知りませんが、日本では産まれてから14回以内に出生届を出さねばならず、そこには「性別」の欄がある。空欄では受理されない。何をもって男か女かを決めるかといえば「外性器」。ペニスとかクリトリスとかその他諸々があるかどうかで決める。
でも、肉体はそうでも心も一致するとはかぎらない。サシャもペニスがあるらしく、それを嫌悪している。女として生きていきたいと願うも周囲の無理解と偏見に苦しむ。性別を自由に簡単に変えられたらいいのにと思う。いや、そもそも出生届の性別欄をなくせばいいと思うんですがね。
サシャの両親
サシャの母親は自分を責めます。サシャが生まれる前、女の子がほしかったのに流産してしまう。だからサシャは男として生まれたのに女になろうとしているのではないか。自分のせいでサシャが苦しんでいると言う母親自身もひどく苦しんでいる。父親もサシャが自由に、ありのままに生きていくことを願っている。それを阻む学校の教師たちを「あいつらは自分のことしか考えていない」と厳しく指弾する。
サシャは幸運ですね。
だって、母親があそこまで自責の念にかられるのは、周囲から「親のあなたが悪いのではないか」と責められたからです。そこで子どもを責める人も世の中にはいるでしょう。「あんたのせいで私が悪いと言われる」とか「あんたのせいで恥ばかりかかされてる」とか。
でも、サシャの母親は自分を責める。そんなお母さんの気持ちが痛いほどわかるサシャは母親を気遣う。姉や兄もサシャをとても心配している。
もし親がサシャを責めたら自殺だってしかねない。映画館のチラシに小原ブラスのコメントが載っていて、
「なぜ自分が自分であることを説明せねばならないのか。何も反省することがないのになぜ自分を変えねばならないのか」
と憤っていました。同じ性的マイノリティとして見過ごせないのでしょう。いや、別にはっきりゲイやレズビアンだけでなく、私のような自分をヘテロセクシャルだと思っている人も誰も彼も、我々はみんな性的マイノリティなのです。クリアカットに「男」と「女」に分けられる、分けるべきとの考え方はただの刷り込まれたイデオロギーにすぎません。
さて、ブラスの「自分を変える」という言葉。これはトランスジェンダーを考えるうえで大事なキーワードだと思います。
ブラック校則との類似性
何年も前から問題になっているブラック校則。その中で最も有名なのが「すべての生徒は髪の毛が黒くなければならない」というやつですよね。ハーフとか遺伝的な何かで黒くない人は、黒くない髪が地毛である証明書を出さねばならず、それができなければ黒く染めなければならない。(茶髪や金髪に染めるのはダメなのに黒く染めることはいいというナンセンス)
これはブラスの言葉と完全に一致しますね。地毛証明書とは「自分が自分であることを説明すること」です。黒く染めるのは「自分を変えること」です。
トランスジェンダーとブラック校則というまったく別の分野の問題が、ここまで相似形を成していることに驚きを禁じえません。ブラック校則がナンセンスだと思う人はトランスジェンダーにまつわる差別や無理解もナンセンスだと笑わねばならないはず。
でも、なぜか人間は「性」の問題をものすごく特別視する。おそらく、ブラック校則をナンセンスと思う向きでも、トランスジェンダーや性的マイノリティへの締めつけに何の疑問も感じない確率のほうが高いと思う。体は男で心が女なんて異常だ、病気だ、治さねば、と。
内面の重視はどこへ?
人は見た目じゃない。内面だ。みたいなことがまことしやかに喧伝されます。私は、内面は外面に出ると思うし、自他ともに認める超面食いです。
でも、世間的には「面食いは悪いこと」と見なされている。それなら、なぜ「心の性別」を大事にしてあげないのでしょう? 先述した通り、出生届に書く性別は外性器の性別です。つまり「外見の性別」です。
人間は中身だ、と言いながら、外見に合わせて中身を変えろと言う。ダブル・スタンダードもいいところです。
薄汚い人間が出てこない美しさ
学校やバレエスクールの無理解な大人たちはこの映画に一切出てきません。敵に取材するのはドキュメンタリーでは必須では? それがないなら片手落ちだ、と最初は思って見ていたんですが、最後のほうでは、そんな奴ら出てこなくていい、と思いました。
彼らがどれだけひどいことを言ってるかは両親の言葉から明らかなので、サシャとその家族、とても親身な医師など、美しい心をもっている人だけ写し撮るこの映画の手法に感心しました。
と思ったら、監督のインタビューを読むと、取材を申し込んだけど断られただけとか。なぁんだ。しかし、奴らは、学校の名前を出すな、もし出したらどーのこーのと弁護士を使って脅しをかけたらしく、どこまでも最低だな、と。名前を出すなということは自分たちがけしからん行為をしているという自覚があるってことじゃないですか。
何をかいわんや。
でも結果的によかったんじゃないですかね。薄汚いものがいっさい映っていないこの映画はどこまでも透明で美しい。そして温かい。いい映画でした。
監督:セバスチャン・リフシッツ
出演:サシャ、サシャの母、父、姉、兄、医師
男の子として生まれながらも、心は女の子のサシャというトランスジェンダーの子どもをめぐるドキュメンタリー。
これが実に美しく、切なく、そして温かい映画でした。
性別の決め方
フランスの法律は知りませんが、日本では産まれてから14回以内に出生届を出さねばならず、そこには「性別」の欄がある。空欄では受理されない。何をもって男か女かを決めるかといえば「外性器」。ペニスとかクリトリスとかその他諸々があるかどうかで決める。
でも、肉体はそうでも心も一致するとはかぎらない。サシャもペニスがあるらしく、それを嫌悪している。女として生きていきたいと願うも周囲の無理解と偏見に苦しむ。性別を自由に簡単に変えられたらいいのにと思う。いや、そもそも出生届の性別欄をなくせばいいと思うんですがね。
サシャの両親
サシャの母親は自分を責めます。サシャが生まれる前、女の子がほしかったのに流産してしまう。だからサシャは男として生まれたのに女になろうとしているのではないか。自分のせいでサシャが苦しんでいると言う母親自身もひどく苦しんでいる。父親もサシャが自由に、ありのままに生きていくことを願っている。それを阻む学校の教師たちを「あいつらは自分のことしか考えていない」と厳しく指弾する。
サシャは幸運ですね。
だって、母親があそこまで自責の念にかられるのは、周囲から「親のあなたが悪いのではないか」と責められたからです。そこで子どもを責める人も世の中にはいるでしょう。「あんたのせいで私が悪いと言われる」とか「あんたのせいで恥ばかりかかされてる」とか。
でも、サシャの母親は自分を責める。そんなお母さんの気持ちが痛いほどわかるサシャは母親を気遣う。姉や兄もサシャをとても心配している。
もし親がサシャを責めたら自殺だってしかねない。映画館のチラシに小原ブラスのコメントが載っていて、
「なぜ自分が自分であることを説明せねばならないのか。何も反省することがないのになぜ自分を変えねばならないのか」
と憤っていました。同じ性的マイノリティとして見過ごせないのでしょう。いや、別にはっきりゲイやレズビアンだけでなく、私のような自分をヘテロセクシャルだと思っている人も誰も彼も、我々はみんな性的マイノリティなのです。クリアカットに「男」と「女」に分けられる、分けるべきとの考え方はただの刷り込まれたイデオロギーにすぎません。
さて、ブラスの「自分を変える」という言葉。これはトランスジェンダーを考えるうえで大事なキーワードだと思います。
ブラック校則との類似性
何年も前から問題になっているブラック校則。その中で最も有名なのが「すべての生徒は髪の毛が黒くなければならない」というやつですよね。ハーフとか遺伝的な何かで黒くない人は、黒くない髪が地毛である証明書を出さねばならず、それができなければ黒く染めなければならない。(茶髪や金髪に染めるのはダメなのに黒く染めることはいいというナンセンス)
これはブラスの言葉と完全に一致しますね。地毛証明書とは「自分が自分であることを説明すること」です。黒く染めるのは「自分を変えること」です。
トランスジェンダーとブラック校則というまったく別の分野の問題が、ここまで相似形を成していることに驚きを禁じえません。ブラック校則がナンセンスだと思う人はトランスジェンダーにまつわる差別や無理解もナンセンスだと笑わねばならないはず。
でも、なぜか人間は「性」の問題をものすごく特別視する。おそらく、ブラック校則をナンセンスと思う向きでも、トランスジェンダーや性的マイノリティへの締めつけに何の疑問も感じない確率のほうが高いと思う。体は男で心が女なんて異常だ、病気だ、治さねば、と。
内面の重視はどこへ?
人は見た目じゃない。内面だ。みたいなことがまことしやかに喧伝されます。私は、内面は外面に出ると思うし、自他ともに認める超面食いです。
でも、世間的には「面食いは悪いこと」と見なされている。それなら、なぜ「心の性別」を大事にしてあげないのでしょう? 先述した通り、出生届に書く性別は外性器の性別です。つまり「外見の性別」です。
人間は中身だ、と言いながら、外見に合わせて中身を変えろと言う。ダブル・スタンダードもいいところです。
薄汚い人間が出てこない美しさ
学校やバレエスクールの無理解な大人たちはこの映画に一切出てきません。敵に取材するのはドキュメンタリーでは必須では? それがないなら片手落ちだ、と最初は思って見ていたんですが、最後のほうでは、そんな奴ら出てこなくていい、と思いました。
彼らがどれだけひどいことを言ってるかは両親の言葉から明らかなので、サシャとその家族、とても親身な医師など、美しい心をもっている人だけ写し撮るこの映画の手法に感心しました。
と思ったら、監督のインタビューを読むと、取材を申し込んだけど断られただけとか。なぁんだ。しかし、奴らは、学校の名前を出すな、もし出したらどーのこーのと弁護士を使って脅しをかけたらしく、どこまでも最低だな、と。名前を出すなということは自分たちがけしからん行為をしているという自覚があるってことじゃないですか。
何をかいわんや。
でも結果的によかったんじゃないですかね。薄汚いものがいっさい映っていないこの映画はどこまでも透明で美しい。そして温かい。いい映画でした。
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