『MONOS 猿と呼ばれし者たち』(2019年、コロンビア・アルゼンチン・オランダ・ドイツ・スウェーデン・ウルグアイ・スイス・デンマーク)
原案:アレハンドロ・ランデス
脚本:アレハンドロ・ランデス&アレクシス・ドス・サントス
出演:ソフィア・ブエナベントゥーラ、モイセス・アリアス、ジュリアンヌ・ニコルソン


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21世紀最高傑作と信じて疑わない、とんでもない映画が出現しました。

脚本家を目指していた者からすると、どうやったらこういうシナリオが書けるのかがわからない。作劇だけでなく、演出、音楽、音響効果など「とんでもない映画」になった要因はいろいろありましょうが、それはまた稿を改めて。今回は、見ていて最初に「お、これはちょっと他の映画と違う」と思ったこと、すなわち「セクシャリティとジェンダー」について書きます。


物語のあらまし
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その前に物語のあらましを説明しておきます。といっても、私はちゃんと把握できていないので(たぶんこの映画の物語を完全に把握できる人は皆無でしょう)公式HPに記載されているものを転載します。


「世間から隔絶された山岳地帯で暮らす8人の兵士たち。ゲリラ組織の一員である彼らのコードネームは‟モノス”(猿)。「組織」の指示のもと、人質であるアメリカ人女性の監視と世話を担っている。ある日、「組織」から預かった大切な乳牛を仲間の一人が誤って撃ち殺してしまったことから不穏な空気が漂い始める。ほどなくして「敵」の襲撃を受けた彼らはジャングルの奥地へ身を隠すことに。仲間の死、裏切り、人質の逃走…。極限の状況下、‟モノス”の狂気が暴走しはじめる」


ということらしいです。

では、セクシャリティとジェンダーについて見ていきましょう。


ランボーの3Pキス
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モノスの一員であるランボーというこの女の子が主人公なのかどうか判然としませんが(たまにある「主人公のいないドラマ」でしょうか?)このランボーと、別の女性兵士と男性兵士が三人横並びになって、女性兵士がランボーと男性兵士をキスさせる場面があります。

表情から察するに、ランボーとその男性は好き合っているようで、女性兵士は恋のキューピッド役を買って出て二人をキスさせた。ランボーは精悍な顔つきで短髪で胸もあまり大きくないので男か女か判然としない。そのため、男女のキスなのか男同士のキスなのかわからない。すると、何とキューピッドのはずの女性兵士もキスに加わります。キスの3Pです。

このことによって、ランボーが男だろうと女だろうと、男女のキス、男同士のキス、女同士のキスの3種類のキスが同時に行われるという、あまり映画では例のない場面となります。(エンドロールで初めてわかりましたが、ランボーは女優が演じています)

私はとても感動しました。

いま、世界中で「性」が政治的な問題となっています。MeToo運動に端を発した波は、まだ性差別や性的搾取を改善しきれていませんが、改善していこうという機運は高まっています。BS1スペシャル「わたしたちの国のカタチ ~衆院選とZ世代~」でも、あるトランスジェンダーの若者が「最大の争点はジェンダー差別の解消」と声高に叫んでいました。

政治だけでなく、生物学的にも「性」は揺らいでいます。「男」と「女」は決してクリアカットに分けられるものではなく、「濃淡」の問題らしい。白黒映像が「白」と「黒」から成っているのではなく、すべては「グレーの濃淡」の問題なのとまったく同じです。

私はずっと自分は100%男だと思って生きてきましたが、そんな人間はいないそうです。ある部分は男で、ある部分は女性なのです。そしてその「ある部分」は個人ごとに違う。「性」とはたった二つだけ存在するのではなく、まさに千差万別。人の数だけ「性」がある。

だから「性的嗜好」も千差万別なはずです。本来は。しかしながら、我々は異性愛だけしか認めようとしない。同性愛結婚を認めた自治体もありますが、まだまだ保守的な考え方の人が多い。異性愛は正常で同性愛やバイセクシャルは異常とされる。それは単なる「刷り込み」です。イデオロギーです。我々は頭で考えたイデオロギーで人を好きになったり、関係を結んだり拒否したりしている。


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しかしながらこの『MONOS 猿と呼ばれし者たち』は、いとも簡単にそんなイデオロギーを超越します。女二人と男の3Pキスで。先述した通り、ここにはヘテロセクシャルとホモセクシュアルとレズビアンの三つが同居しています。彼らはそれを正常とも異常とも思っていません。ただ、腹の底から湧き上がる己の欲求に忠実に従って行動しているだけです。頭で考えたりしない。自分たちが普通かどうかなんて考えない。そもそもそのような概念が初めから存在しない。

日本でも江戸時代には「衆道(しゅどう)」といって、侍が男同士で交わっていたのはよく知られています。大島渚の『御法度』で描かれていた通りです。

私たちはもっと「自由」になればいい。自分はヘテロである。ホモである。レズである。そんなものは頭で考えた「理屈」にすぎません。己の心と体が誰かと愛を交わしたいと思うなら、その気持ちを伝えればいい。オーケーなら交わればいい。その人が男か女かなんて関係ない。

本能だけで作られたような映画ですが、かなり戦略的に作られていると思います。ランボーに中性的な女優をキャスティングしているところにそれが窺えます(中性のランボーは「男らしさ」「女らしさ」という幻想をも無効化します)。作者たちが意図的に「性」をテーマのひとつに据えたのはほぼ確実でしょう。

本能のままに作られたように見えますが、そう見せているだけで、かなり頭を使っているのが窺えます。頭で考えてぬい作った映画が、結果的に観客の腹を撃つ。映画はこうでなくっちゃ。最近は脳髄に訴える映画が多すぎる。


スウェーデンと博士
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モノスが人質として幽閉しているアメリカ人女性は「博士」と呼ばれています。博士には組織司令部との無線通信で、夫と子どもがいることがわかります。

つまり彼女は自分はヘテロセクシャルだというイデオロギーに毒されて生きてきた人です。そんな博士が、スウェーデンという女性兵士(この映画はランボーとかスウェーデンとか別の何かを連想してしまう名前が多い)が監視しているときに「敵」の爆撃があり、土埃をかぶった二人は、お互い自然な欲求からキスを交わします。

スウェーデンにとってはランボーの3Pキスと同じく、ごく普通のことです。でも文明人の博士は情熱的なキスを交わしたのち、こんな異常なことはしてはいけないとばかりスウェーデンを突き飛ばします。

すると、スウェーデンはマシンガンの銃口を博士に向け、怒ったような顔で涙を流します。スウェーデンにはなぜ博士が自分のキスを受け容れながら突然拒絶したのかわからない。

モノスにとっての常識と、博士が代表する文明社会の常識が激しく衝突したいいシーンでした。最終的に博士がスウェーデンを殺します。まるでキスなどなかったかのように。何とも痛ましかった。


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モノスの隊長はビッグフット(これまた別の何かを連想してしまう)という名前なのですが、後半、彼はスウェーデンと寝ていました。スウェーデンはレズビアンかと思ったらバイセクシャルなのか。なんて思ってはいけません。何度も言いますが、彼らにとってそのような概念は最初から存在しないのです。寝たい相手と寝るだけ。

モノスにはジェンダー=社会的性差という概念もありません。訓練も、実戦も、殺した牛を解体して食べるときも、女が男のために働いたり、男が女を守ってやったり、などという光景がない。みな同じように働く。人間はみな平等。それがこの映画の「思想」です。(つづく)

続きの記事
『MONOS』考察②「家族」の崩壊


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