『白い指の戯れ』(1972年、日本)
脚本:神代辰巳&村川透
監督:村川透
出演:伊佐山ひろ子、荒木一郎、谷本一、粟津號


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数ある日活ロマンポルノのなかでも屈指の傑作と呼び声高い『白い指の戯れ』。

伊佐山ひろ子が荒木一郎の代わりにスリの身代わり逮捕される結末がとても印象深い映画ですが、私はこれまで身代わりの動機を「荒木一郎に惚れているから」と思っていました。悪魔的に魅力のある男のために「自分がやった」と嘘をついた、と。

でも違いますね。

キーワードは「ギフト」です。


努力家=次郎
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伊佐山ひろ子演じるユキは、冒頭でコソ泥を生業にしている次郎(谷本一)と出逢います。次郎は本屋で働いている洋子という女と恋仲なのですが、その女が彼のユキへの恋情を見ぬき、激しく嫉妬した末、それを責めてくるので洋子を捨てます。洋子ときっぱり別れた次郎はユキを口説きます。ユキは処女のため身が堅いのですが、次郎は彼女を抱きます。が、苦痛に身を硬くしているユキを見て、次郎は途中でやめます。次郎はとてもやさしいのです。やさしいから洋子に嫉妬されるし、ユキも彼を憎からず思っている。

でも次郎はギフトをもっていません。うまい方法で自転車を盗みますが、手つきがぎこちなく、結局逮捕されてしまう。ユキは次郎に何度も面会に行ったらしいですが、そのために刑事たちに泥棒仲間だと思われ、会社でもそんな噂でもちきりになり、平凡なOLだったユキは会社を辞めます。


天才=拓
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さて、次郎の代わりに現れたのが、荒木一郎演じる拓という男が現れる。刑務所で次郎からユキのことを聞いたと、例の喫茶店にやってくる。そこで彼は「ギフト」をユキに見せます。

次郎がユキを口説こうとしたとき、新聞紙を細く切ったものを丸めて30センチほどの円筒を作り、それを鼻の上に載せて器用にバランスを取ります。修得するのに半年かかったとか。拓は「次郎から教えてもらった」と、もっと細くて短いストローを鼻の上に載せます。どう考えても長くて太い新聞紙のほうが簡単です。次郎はそれに半年かかった。拓はより難しい技をほんの数週間ほどで修得した。

次郎は自分で「俺は器用だ」みたいなことを言いますが、しょせんは努力で得たものです。一方、拓は神からギフトを授かっている。器用さもそうだし、やたら女にもてるというのもギフトでしょう。彼はあらゆる面で「天才」なのです。この天才と努力家の葛藤がこの映画の鍵です。

洋子によると、拓にはたくさん女がいる。ユキはその一人にすぎない。それでもユキは自分を邪険に扱う拓のために甲斐甲斐しく働きます。

そして、拓はユキに欲情する手下の男にユキを差し出す。ユキは抵抗しますが、強姦されます。それでもユキは拓を憎めない。逆に、スリの練習をやれという拓の命令を素直に聞き、健気に練習する。

しかし、彼女も次郎と同じくギフトを与えられていない。拓のように流れるようにスルことができない。

拓はそれを本能的に知っています。この女は次郎と同じ小悪党だ。適当に遊ぶだけにしよう。捨て駒として取っておくに越したことはない、と。そして本当にユキは拓の捨て駒になります。


身代わりの理由と最後に祝福される男
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刑事たちの尾行を交わした二人はバスに乗り、その車中でサラリーマン風の男からまず拓が財布をスリ、それをユキの鞄の中に落とします。財布がないことに気づいた男は目の前に立っていた拓に「スッただろう」と難詰しますが、拓は認めない。代わりにユキが「私がやりました」と財布を差し出し、警察へ連行されます。

そのとき、何事もなかったかのように去っていく拓の背中をユキが見つめるカットバックが異様に哀しいのですが、彼女はなぜ彼の背中をあんなに哀しく見つめたのでしょう?

最初に言った通り、以前まで私はユキが拓に惚れているからだと思っていました。惚れているから身代わりになった、そして「こいつじゃない、俺だ」と言ってほしかった。

でも、いま、はっきりそれは違うと思う。

惚れてるのは惚れてるけど、それが身代わりの動機ではない。ラストシーンで粟津號刑事が「あの女、まだ自分がやったって言い張ってるぜ」と拓に言いますが、もし好きだから身代わりになったのなら、「こいつじゃない、俺がやったんだ」と言ってくれなかった拓をいつまでもかばうでしょうか?

私は、ギフトをもらえなかったユキより、ギフトをもらった拓のほうが娑婆で生きる資格があると作者たちは歌いたかったのだと思います。

なぜ鼻の上に円筒をのせてバランスを取る技芸を描写する必要があるのでしょうか? ただ、拓のほうが悪党として、男として魅力的というだけなら、あんな描写は必要ない。

次郎や洋子、そしてユキは哀しくもまったくギフトを与えられなかった人間です。そして粟津號刑事もそうです。彼は大物の拓を逮捕することにすべてを懸けているようですが、尾行しても簡単にまかれたり、刑事としての能力はなさそうです。

この映画では、最初に登場した次郎が逮捕されて以後まったく登場しなくなり、主役として登場したユキも逮捕以後登場しません。トリを務めるのは途中から出てきた拓です。拓は脇役ですが、これは彼を祝福するための映画です。

ユキが身代わり逮捕されたあと一切彼女を登場させなかったのは、作者たちが彼女のことを歌いたくなかったからです。この映画は、凡百の映画なら声高に歌う「小物の悲哀」などに微塵も興味を示さない。

だから、最後の、拓がペッと唾を吐く姿が痛快なのでしょう。選ばれた者だけが祝福される不条理を不条理として描いていない。それが当然だとこの映画は言っている。

拓より次郎のほうが女にやさしい? だから、そんなところにこの映画は価値を置いていないのです。


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白い指の戯れ
粟津號
2017-04-07



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