実家の犬が死にそうである。

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半年ほど前だったろうか。左前足にできた小さなコブを獣医に見せるとガンだった。ステロイド剤を服用しているが、それでもガンはどんどん大きくなり、もはや「手首が二つある」ほどに大きくなった。

あれだけガンが大きくなれば転移もしていよう。痛く苦しいだろう。一日のほとんどを眠って過ごしているとはいえ、起きているときはキャンキャン鳴いている。

以前、こんな記事を書いた。⇒愛犬を見ながら安楽死について考える

いまも保健所に連れて行って死なせてもらったほうが、この子にとって幸せではないか、と思う。こんなに苦しんでいるのに、生かせているほうが残酷なのではないか、と。

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(↑こんな頃もありました)


でも、と思考は逆へ振れる。

水を飲ませてやると、さもおいしそうにガツガツといった感じで、どれだけ飲むんだというほど飲む(薬の副作用だそう)。ジャーキーやバナナを鼻先にもっていってやると、匂いを嗅いで「お、これはうまそうだ」とこちらの指をかじるような勢いで食べる。

そんな姿を見ていると、「あ、こいつはやっぱり生きたいんだな。死なせてやったほうが幸せだなんてこちらの傲慢な思い込みだったんだ」と思う。


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(↑犬であることを忘れてやしないか?)


でも、また思考は元へ振れる。

何かを要求して鳴くときは、外へおしっこさせに連れて行ってやったり(ハーネスに紐をつけて垂直に引っ張り上げた状態でさせてやるのです)水を飲ませてやったりすれば得心しておとなしく寝る。だけど、痛みや苦しみで鳴いているときは、何をしてやってもしばらく鳴き続ける。その悲鳴を聞いているだけで、やはり死なせてやったほうが……と思ってしまう。

もう25年前に死んだ一匹目も同じように寝たきりだった。あのとき私たち親子三人は「できるかぎりの手は尽くした」と胸を張れるほど介護した。だから、死んでも潔く諦められた。誰にでもいつかは等しく訪れることなんだから、と。

だから、いまも「できるかぎりの手は尽くした」と言えるだけのことをしてやりたいと思う。でも、やっぱりあの悲鳴を聞いていると「それはおまえの自己満足ではないのか」と、もう一人の自分の声が聞こえてくる。

問題は、両親が事の重大さをあまりわかってないらしいこと。

父親は認知症だからか、「あ、鳴いてるね。どしたん?」くらいにしか気遣ってないし、母親は、前の犬が17歳2か月まで生きたので、それを超えさせるのを目標にしている。

現在16歳2か月。あと1年!? 冗談じゃない。この苦しみをあと1年も味わわせようというのか。1年だけでも長いが、犬の1年は人間の4年だということを忘れてはいけない。

「前の犬と張り合わせる必要なんかないよ」と言っても、わかったふうな顔はするが、母親も少し認知症が入っているので、私がそう言ったという記憶が長続きしないようである。

困った。

25年前、1匹目のときにこんな行きつ戻りつの思考をしていたかどうか、ほとんど憶えていない。せっかく前例があるのに参考にすることができないのはとても残念。何のための体験だったのか。

昨夜、あまり鳴くのでおしっこかもしれないと外へ出してやったら、庭の端まで歩いていき、ゴミ箱の陰の吹きっさらしの凍えるような場所でうずくまった。あまり寒いので中へ入れてやったがいつまでも鳴き続けた。

今日未明、あまり鳴くのでまた外へ出してやろうとしたら、「そっちじゃない!」と激しく両足で訴える。そこで方向を変えると何も言わない。庭とは逆の、ソファの下に置いてやると落ち着いてすやすやと眠った。

思えば25年前、1匹目は私が仕事から帰ると座布団の中で死んでいた。座布団の布の中で。ファスナーを閉めてあったはずなのに、いったいどうやって開けたのか、中に入って死んでいた。

犬や猫は飼い主の目の届かないところで死のうとするらしい。だから、いまの犬も、私たちの目から遠く離れたところに行きたいのではないか。死に場所を探しているのではないか。

私は、ソファの下の冷たい床に犬を置いたまま自室で眠った。冷えて死ぬかもしれないと思った。それでもいいと思った。それがあの子の望みなら、と涙を流しながら眠りについた。

起きてみると、鳴き声がした。うれしかった。


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うれしかった。



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