違和感ありまくりのニュースを見ました。

アメリカの人気コミック『スーパーマン』の来月発売号で、主人公のスーパーマン(といっても初代のクラーク・ケントではなく息子のジョン・ケント)がバイセクシャルであることをカミングアウトする内容になるというもの。


superman

作者たちは「キャプテン・アメリカもゲイであることを公言しているし、ワンダーウーマンはスーパーマンと同じくバイセクシャル。スーパーヒーローが性的マイノリティであることで彼らと自分を同一視できる人が増える」

と、まるで自分たちはとても良いことをしたみたいな鼻息の荒いコメントが載っていました。

私はヘテロセクシャルなのでスーパーマンが男とキスしてる場面とか何かいやだなぁと思うんですが、いまはそういうことを言ってはダメらしい。といって、PC=政治的正しさが蔓延した現代世界を呪いたいわけでもない。

スーパーマンがバイセクシャルだなんていやだなんて言いながら、いま私が書いている小説には同性愛者やバイセクシャルの人物が普通に出てきます。性的嗜好そのものをどうこう言いたいわけではないのです。それは人それぞれ。一人一人の嗜好は大事にしないといけないと考えています。

私が問題にしたいのは、『スーパーマン』の作者たちが発売前に性の多様性を売りにしていると発言したことです。

確かに性的嗜好や性別そのものは多様であっていい。いや、多様でなければならない。『ヒューマニエンス』というNHKの番組によると、男がもつY染色体はどんどん短くなっていっていて、5万年後には男(オス)は消滅するのではないか、もしかすると明日突然、男が消えるかもしれない、というのです。

男か女か、というのは、はっきり区別できるものではなく、濃淡の問題らしい。100%の男もいないし、100%の女もいない。誰しも男と女の間を揺れ動いている。

しかし、だからといって、「自分たちの作品は性の多様性を売りにしている」とドヤ顔で言われても辟易してしまうのです。

人はなぜか性に関することを特別視します。いま書いてる小説の主人公が女だというと「なぜおまえは男なのに女が主人公の物語を書けるのか」と不思議そうに聞いてくる人がいます。性は濃淡の問題なのだから、私の中の女性の部分を出せば書ける。でも人は「男がわかるのは男だけ」「女がわかるのは女だけ」と思っている。

しかし、性は濃淡の問題なのだから、バイセクシャルにだって男の部分、女の部分はあるでしょう。ヘテロセクシャルにもゲイやレズビアンの部分はあるだろうし、ゲイやレズビアンにもヘテロセクシャルの部分はある。

もし、バイセクシャルのことはバイセクシャルにしかわからないと当のバイセクシャルが言うとしたら、その人は自分のバイセクシャルという性的嗜好を固定したものと考えていることになります。それは間違いです。だって性は濃淡の問題で常にゆらぎの状態にあるのだから。

私はヘテロセクシャルだと先ほど言いましたけど、それもただの私の思い込みです。もしかしたら明日運命の男に出逢って自分をゲイだと認識するかもしれない。そのあとまた女が好きになるかもしれない。急に自分の体は男だけど心は女だと言い出すかもしれない。

性というのはそれぐらい「自由」なものであって、自分はゲイ、あいつはレズビアン、彼はバイセクシャルとか「固定」しているものではありません。固定していると我々が思いこんでいるだけです。

スーパーマンに話を戻すと、男と恋におちることでバイセクシャルをカミングアウトするということは、これまでは女の恋人がいたということですよね? つまりヘテロセクシャルからバイセクシャルに変わると。

何度も言うように、そういうのが本当は「普通」のことなのだから、「来月号でスーパーマンがバイセクシャルを公言する」と公言するのがおかしいと思うわけです。事前に告知するのは、まるでそれが特別なこと、不自然なことであると公言しているに等しい。

何も言わずにさらっと発売すればよかったと思う。いろいろな意見が飛び交うだろうけど、それが主人公にとっての真実なのだと、そのときに小声で言えばよかった。

性の多様性とは、何よりもまず我々自身の性の多様性を自覚することから始めないといけないと思う。

DCコミックスの幹部たちの性別や性的嗜好は知らないけどが、きっとそれを固定したものと考えているのでしょう。私の違和感の正体はそこです。

自分の性は常にゆらいでいる。まずそこから始めませんか?





このエントリーをはてなブックマークに追加