『空白』(2021、日本)
脚本・監督:𠮷田恵輔
出演:古田新太、松坂桃李、寺島しのぶ、藤原季節、田畑智子
『BLUE/ブルー』は未見ですが先日WOWOWが放送してくれたので近日中に見る予定の、𠮷田恵輔監督の新作が早くも封切られました。(以下ネタバレあります)
ラストシーンを見て思い出したのは、90年代半ばの脚本家・倉本聰さんの言葉でした。
『ニュースステーション』で司会の久米宏と一緒にうまい飯を食いながら語り合う「最後の晩餐」というコーナーがあって、倉本さんがゲストのときに放った言葉。「恋人から夫婦になるときに気をつけるべきことって何だと思います?」と久米宏から問われた倉本さんはこう答えた。
「僕はね、同じ風景を見つめることじゃないかと思うんです。恋人のうちは対面して見つめ合ってればいいんだけど、結婚して働いて子どももできて、それでもずっと見つめ合うなんてできないでしょ。風景でも絵でも映画でも何でもいいけど、同じものを見つめて『きれいだね』『そうね』と同じ感覚を共有する、そういう時間をできるだけたくさんもつ。そうやって赤の他人だった男と女が夫婦になっていくんだと思うんです」
『空白』の古田新太は、事故死した娘の死を受け容れられず、万引き未遂犯として追及しようとした松坂桃李店長を執拗に責め上げる。責めても責めても、松坂桃李がどう答えようと娘の死の直前に何があったか、何がどうなって死に至ったのかはもう永久にわからない。
娘のことを理解しようとして本棚にあったマンガを読むが「まるでわからない」。
が、娘の担任教師(この女優が水谷豊と伊藤蘭の娘とは知らなかった)が美術の時間に描いた絵だともってきてくれた絵を見て彼は救われる。
それはイルカのような形をした雲が三つ海の上に浮かんでいる絵。古田新太も「ちょっと前にイルカに似た雲が浮かんでたんだ」と、うまい下手の差はあれど、ほとんど同じ絵を描いていた。
同じものを見つめ、同じようにイルカに似ていると感じていた父と子。古田新太はとんでもなく最低な男で、漁師の弟子みたいな男にも「あんたが親だときついっす」と言われる、誰がどう見ても父親失格の男。おそらく娘は父親が嫌いでしょうがなかっただろう。それでも同じものを見つめ、同じように感じていた事実によって、二人は初めて「親子」になる。いや、親子になったような気がするだけかもしれない。
それでもいいではないか。それぐらいの勘違いがなければ生きていけないよ。
この映画はそう語っているように思いました。セリフではなくきちんと画で見せているところが素晴らしい。
(以下はこの映画への批判です。映画が好きな方は読まないでください)
イルカ雲の絵を見るちょっと前、娘を轢いてしまった女性が自殺し、その葬儀の席に駆けつけた古田新太に、彼女の母親・片岡礼子が「心の弱い娘に育ててしまった私の責任です」と頭を下げる。ここから古田新太は見違えるほど人が変わる。そのおかげで絵も描くようになるし、娘のマンガを読むようにもなる。
でも、あそこで片岡礼子があんなものわかりのいいことを言うのはちょいとご都合主義じゃないかと思いました。直接的に娘の死に関係している松坂桃李だって最初は謝罪なんかしてなかったじゃないですか。いくらあの女性が心の弱い人でも、いや、だからこそ、その母親にものわかりのいいことを言わせてはいけないと思う。それまで女性の謝罪を完全無視していた古田新太が葬式に駆けつけるのがそもそもおかしいと思うし。
あの片岡礼子の言葉で主人公の心が変わっていくだけに、ちょっともったいない気がしました。
それ以上に気になるのは……
『空白』というタイトルは、冒頭、化粧品を万引きしようとした娘の手首をつかんだ松坂桃李が「ちょっと事務所まで来て」と連れて行き、そのあと事務所から逃げる娘、追う松坂、そして事故、という流れになるんですが、事務所で何があったかが「空白」なんですよね? 古田新太はそのとき何があったか、松坂桃李が何をしたかを知りたがる。
学校の教頭は「あの店長は痴漢で捕まったことがある」とか言ってましたけど、ラーメン屋で古田新太にそれを訊かれたときの松坂桃李のリアクションから察するに嘘ですよね。そして、娘のぬいぐるみに盗んだ化粧品が隠されていたことを知る古田新太。
ということは、あのとき事務所では別にハレンチな行為はなかっただろうし、娘の手や鞄の中には盗んだ化粧品があったことは確実。ただ単に事情を聞いていただけでしょう。「警察に突き出すぞ!」くらいの脅しはしたかもしれないが、盗んだ以上それぐらいのことは言われて当然。
つまりは、何も秘密がないシーンをなぜオフにしたのか、これがさっぱりわからない。
普通に松坂桃李が事情聴取して、ちょっとは脅して、勢いあまって机に脚をぶつけて、痛がる隙に娘は逃げる。で、結果的に事故死。というふうにオンですべて観客に見せたほうがよかったのではないでしょうか。
観客はすべて知ってるし、松坂桃李もすべて正直に答えるけど、どう答えようと古田新太には嘘にしか聞こえない。だから執拗に彼を責め上げる。まったく同じ流れにできますから、オフにする=空白にする意味がない。
変に「空白」にしてしまうから何か秘密があるのかと思ったら何もなさそうだし、逆に本当に何も秘密がなかったのかどうかさえ「空白」ですよね。観客に対してはっきり答えを見せるべきだと思う。無責任です。
寺島しのぶのキャラがよかったですね。ただ、彼女は彼女なりの「正義」を振りかざしているのかと思ってたら松坂桃李に片想いしてただけってのはちょいと興醒めしましたが。でもこの映画で一番光っていたのは彼女でした。
結局、彼女も頼りにされるのはいいけど、炊き出しのカレーをぶちまけられてどこに怒りをぶつけていいのやら泣けてくるし、松坂桃李は「アオヤギ屋の店長でしょ? あんたの焼き鳥弁当好きだったんスよ。また弁当屋でもやって食わしてくださいよ」と言われる。ありがたい言葉だけど「いまそれを言われても」という気持ちでしょう。
結局、勘違いかもしれないけど救われた気持ちになったのは最低親父の古田新太だけというのは、ちょっとアレな感じがしないでもない。主役の役得? そういうこと? 母親の田畑智子は古田新太に「悪かった」と頭を下げられたからそれでいいのか。
というか、やっぱり古田新太は最後までああいう「ものわかりの良さ」を見せてはいけなかったと、そこがどうしても引っ掛かる。
でも20年以上も前の倉本聰さんの言葉を思い出させてくれた『空白』という映画、見てよかったです。ありがとうございました。
脚本・監督:𠮷田恵輔
出演:古田新太、松坂桃李、寺島しのぶ、藤原季節、田畑智子
『BLUE/ブルー』は未見ですが先日WOWOWが放送してくれたので近日中に見る予定の、𠮷田恵輔監督の新作が早くも封切られました。(以下ネタバレあります)
ラストシーンを見て思い出したのは、90年代半ばの脚本家・倉本聰さんの言葉でした。
『ニュースステーション』で司会の久米宏と一緒にうまい飯を食いながら語り合う「最後の晩餐」というコーナーがあって、倉本さんがゲストのときに放った言葉。「恋人から夫婦になるときに気をつけるべきことって何だと思います?」と久米宏から問われた倉本さんはこう答えた。
「僕はね、同じ風景を見つめることじゃないかと思うんです。恋人のうちは対面して見つめ合ってればいいんだけど、結婚して働いて子どももできて、それでもずっと見つめ合うなんてできないでしょ。風景でも絵でも映画でも何でもいいけど、同じものを見つめて『きれいだね』『そうね』と同じ感覚を共有する、そういう時間をできるだけたくさんもつ。そうやって赤の他人だった男と女が夫婦になっていくんだと思うんです」
『空白』の古田新太は、事故死した娘の死を受け容れられず、万引き未遂犯として追及しようとした松坂桃李店長を執拗に責め上げる。責めても責めても、松坂桃李がどう答えようと娘の死の直前に何があったか、何がどうなって死に至ったのかはもう永久にわからない。
娘のことを理解しようとして本棚にあったマンガを読むが「まるでわからない」。
が、娘の担任教師(この女優が水谷豊と伊藤蘭の娘とは知らなかった)が美術の時間に描いた絵だともってきてくれた絵を見て彼は救われる。
それはイルカのような形をした雲が三つ海の上に浮かんでいる絵。古田新太も「ちょっと前にイルカに似た雲が浮かんでたんだ」と、うまい下手の差はあれど、ほとんど同じ絵を描いていた。
同じものを見つめ、同じようにイルカに似ていると感じていた父と子。古田新太はとんでもなく最低な男で、漁師の弟子みたいな男にも「あんたが親だときついっす」と言われる、誰がどう見ても父親失格の男。おそらく娘は父親が嫌いでしょうがなかっただろう。それでも同じものを見つめ、同じように感じていた事実によって、二人は初めて「親子」になる。いや、親子になったような気がするだけかもしれない。
それでもいいではないか。それぐらいの勘違いがなければ生きていけないよ。
この映画はそう語っているように思いました。セリフではなくきちんと画で見せているところが素晴らしい。
(以下はこの映画への批判です。映画が好きな方は読まないでください)
イルカ雲の絵を見るちょっと前、娘を轢いてしまった女性が自殺し、その葬儀の席に駆けつけた古田新太に、彼女の母親・片岡礼子が「心の弱い娘に育ててしまった私の責任です」と頭を下げる。ここから古田新太は見違えるほど人が変わる。そのおかげで絵も描くようになるし、娘のマンガを読むようにもなる。
でも、あそこで片岡礼子があんなものわかりのいいことを言うのはちょいとご都合主義じゃないかと思いました。直接的に娘の死に関係している松坂桃李だって最初は謝罪なんかしてなかったじゃないですか。いくらあの女性が心の弱い人でも、いや、だからこそ、その母親にものわかりのいいことを言わせてはいけないと思う。それまで女性の謝罪を完全無視していた古田新太が葬式に駆けつけるのがそもそもおかしいと思うし。
あの片岡礼子の言葉で主人公の心が変わっていくだけに、ちょっともったいない気がしました。
それ以上に気になるのは……
『空白』というタイトルは、冒頭、化粧品を万引きしようとした娘の手首をつかんだ松坂桃李が「ちょっと事務所まで来て」と連れて行き、そのあと事務所から逃げる娘、追う松坂、そして事故、という流れになるんですが、事務所で何があったかが「空白」なんですよね? 古田新太はそのとき何があったか、松坂桃李が何をしたかを知りたがる。
学校の教頭は「あの店長は痴漢で捕まったことがある」とか言ってましたけど、ラーメン屋で古田新太にそれを訊かれたときの松坂桃李のリアクションから察するに嘘ですよね。そして、娘のぬいぐるみに盗んだ化粧品が隠されていたことを知る古田新太。
ということは、あのとき事務所では別にハレンチな行為はなかっただろうし、娘の手や鞄の中には盗んだ化粧品があったことは確実。ただ単に事情を聞いていただけでしょう。「警察に突き出すぞ!」くらいの脅しはしたかもしれないが、盗んだ以上それぐらいのことは言われて当然。
つまりは、何も秘密がないシーンをなぜオフにしたのか、これがさっぱりわからない。
普通に松坂桃李が事情聴取して、ちょっとは脅して、勢いあまって机に脚をぶつけて、痛がる隙に娘は逃げる。で、結果的に事故死。というふうにオンですべて観客に見せたほうがよかったのではないでしょうか。
観客はすべて知ってるし、松坂桃李もすべて正直に答えるけど、どう答えようと古田新太には嘘にしか聞こえない。だから執拗に彼を責め上げる。まったく同じ流れにできますから、オフにする=空白にする意味がない。
変に「空白」にしてしまうから何か秘密があるのかと思ったら何もなさそうだし、逆に本当に何も秘密がなかったのかどうかさえ「空白」ですよね。観客に対してはっきり答えを見せるべきだと思う。無責任です。
寺島しのぶのキャラがよかったですね。ただ、彼女は彼女なりの「正義」を振りかざしているのかと思ってたら松坂桃李に片想いしてただけってのはちょいと興醒めしましたが。でもこの映画で一番光っていたのは彼女でした。
結局、彼女も頼りにされるのはいいけど、炊き出しのカレーをぶちまけられてどこに怒りをぶつけていいのやら泣けてくるし、松坂桃李は「アオヤギ屋の店長でしょ? あんたの焼き鳥弁当好きだったんスよ。また弁当屋でもやって食わしてくださいよ」と言われる。ありがたい言葉だけど「いまそれを言われても」という気持ちでしょう。
結局、勘違いかもしれないけど救われた気持ちになったのは最低親父の古田新太だけというのは、ちょっとアレな感じがしないでもない。主役の役得? そういうこと? 母親の田畑智子は古田新太に「悪かった」と頭を下げられたからそれでいいのか。
というか、やっぱり古田新太は最後までああいう「ものわかりの良さ」を見せてはいけなかったと、そこがどうしても引っ掛かる。
でも20年以上も前の倉本聰さんの言葉を思い出させてくれた『空白』という映画、見てよかったです。ありがとうございました。
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