ダークサイドミステリー「美しき処刑人が見たフランス革命 理想はなぜ恐怖に変わったのか」がめったやたらに面白かった。

王の直属の部下=被差別民
先祖代々「処刑人」という家柄に生まれたシャルル・アンリ・サンソン。ルイ16世につかえ、王と法を絶対視する彼は、裁判で処刑が決まった犯罪人を次々と刀剣で斬首していきました。パリの一等地に居を構え、弟子や使用人が合わせて30人、王室からもらう給料は当時の庶民の100倍もあったそうです。
しかしながら、当時、聖職者、貴族、平民というヒエラルキーがあったなかで、処刑人であるサンソンはそのどこにも属していなかった。ゆえに、どの階層からも差別される憂き目に。ある侯爵夫人がレストランで彼を自席に誘ったあとで処刑人とわかると、騙されたと言って裁判所に訴えたとか。自分から誘っておいて。高額の給料はその見返りだったわけですね。
というか、まだ給料が高いからいいようなものの、日本の穢多・非人などは牛馬の死体の処理をして皮革を取るなど必要不可欠な仕事をしていたのにいわれなき差別を受けていた。それはいまもそうですよね。屠畜業に携わる人は彼らの末裔ばかり。サンソンも死刑判決が出た犯罪人を処刑していただけ。誰かがやらなきゃいけないわけで、必要な仕事をしていただけなのにいわれなき差別の犠牲者に。王の直属の部下だったというのはこれも日本と同じですね。穢多・非人も天皇と直接つながっていたと何かの本で読んだことがあります。

ロベスピエールの斧=サンソン
フランス革命が勃発し、それでも王を処罰する法律はない。王は法を超越した存在。そもそもルイ16世は何も悪事に手を染めていない。王を処刑するなどもってのほかという王党派に対し、急進的なジャコバン派の棟梁ロベスピエールは「王の処刑なくして革命なし」と説いて投票の結果、王の処刑が決まります。
サンソンは王の命で処刑人をやっているのに、その王を処刑せねばならなくなった。その葛藤は如何ばかりか。サンソンはこういったそうです。「ロベスピエールは斧をふるうが、私は単なる斧である」。
王をはじめ、マリー・アントワネット、ダントンなどあまたの反革命分子を処刑する主体はロベスピエールであり、自分はその道具にすぎない、と。ロベスピエールに対する反感はあったでしょうが、それが法が定めた結果ならと、サンソンは黙って従う。多いときは1日に50人も処刑したそうです。その頃にはギロチンが発明されていて、サンソンはロープを引いて離すだけでよかったらしいですが。
それにしても、そんなにたくさんの人間を直接手にかけているのはサンソンであり、よく精神がもったな、と思う。「法」というものはそれほどサンソンにとって大きい後ろ盾だったのでしょうか。それがたとえ政敵を葬るだけの悪法だとしても。
しかし、そのサンソンでさえ、ロベスピエールがすべての政敵を葬るために作った「プレリアール22日法」には従うのが苦しかったようです。プレリアール22日法とは、証人尋問や被告側の弁論なしで陪審員の心証だけで判決を下す究極の「恐怖政治法」。刑罰は死刑のみ。しかも有罪となれば被告のみならず一族郎党すべて有罪。愛人や愛人の召使まで処刑されたといいますから苛烈そのもの。ロベスピエールは暗殺未遂などがあって保身のために必死だったのですね。
サンソンは、有罪人の愛人の召使の年端もいかない女の子がギロチンにかけられるときの「あなたたち、本当にこれでいいのですか」というつぶやきに激しく心を動かされたとか。それでもやっぱりサンソンは法に殉じ、斧であることに徹して彼女を処刑する。
そして結局、ロベスピエールもクーデターによって有罪となり、サンソンが処刑しました。
生き死にが「政治」になった時代

サンソンは、彼がギロチンにかけた人々の最期の姿を克明に日記に記していたそうです。
そのなかでとても興味を惹かれる一節がありました。
「かつて私が牢獄の中に入っていくと、みんなうろたえ、嘆き悲しんだものだった。それがいまでは、私に微笑みかけてくる者さえいる」
ロベスピエールによって無理やり反革命分子にされた活動家たちには、己の最期を余裕のある毅然とした態度で飾ることでロベスピエールを嗤ってやろうという意思があったと思われます。
だから死ぬことが恐いくせに恐くないふりをし、処刑人サンソンにさえ微笑みかける。処刑の際にどう振る舞うかを政敵との駆け引きにしているのです。自分の生き死にさえ「政治」にせざるをえない。それが自由・平等・友愛を掲げたフランス革命の末路、恐怖政治というものの正体だったのかもしれません。
サンソンはあまたの人間を処刑しましたが、誰も彼を「王の手先」とか「ロベスピエールの傀儡」などと非難する者はいませんでした。当然、裁判にかけられることもなかった。でも私はそれはちょっとかわいそうな気がします。
なぜなら、それこそ彼が差別の対象だったことの証しだからです。同じ「市民」として見られていない。もちろん、裁判にかけられていたら間違いなく有罪でしょう。でも、もしかしたらサンソンは心の底ではそれを望んでいたのではないか。いずれにしても、市民と見られていないがゆえに、フランス革命の中心にいてその成り行きをつぶさに見てきたにもかかわらず、革命の主体にも客体にもならず、ただ傍観者として見つめたのみ。
先祖代々処刑人という家柄と法に殉じた男、シャルル・アンリ・サンソン。その心の闇は如何ばかりだったか。例の日記はくだんの召使の女の子を処刑した10日後に突然終わっているとか。その後も少しだけ処刑人として仕事をつづけたあと、息子に代を譲って引退。10年ほど庭いじりなど余生を楽しみ、死去。
彼の日記(サンソン家回顧録というそうです)を読みたいと思わせる良質な番組でした。


王の直属の部下=被差別民
先祖代々「処刑人」という家柄に生まれたシャルル・アンリ・サンソン。ルイ16世につかえ、王と法を絶対視する彼は、裁判で処刑が決まった犯罪人を次々と刀剣で斬首していきました。パリの一等地に居を構え、弟子や使用人が合わせて30人、王室からもらう給料は当時の庶民の100倍もあったそうです。
しかしながら、当時、聖職者、貴族、平民というヒエラルキーがあったなかで、処刑人であるサンソンはそのどこにも属していなかった。ゆえに、どの階層からも差別される憂き目に。ある侯爵夫人がレストランで彼を自席に誘ったあとで処刑人とわかると、騙されたと言って裁判所に訴えたとか。自分から誘っておいて。高額の給料はその見返りだったわけですね。
というか、まだ給料が高いからいいようなものの、日本の穢多・非人などは牛馬の死体の処理をして皮革を取るなど必要不可欠な仕事をしていたのにいわれなき差別を受けていた。それはいまもそうですよね。屠畜業に携わる人は彼らの末裔ばかり。サンソンも死刑判決が出た犯罪人を処刑していただけ。誰かがやらなきゃいけないわけで、必要な仕事をしていただけなのにいわれなき差別の犠牲者に。王の直属の部下だったというのはこれも日本と同じですね。穢多・非人も天皇と直接つながっていたと何かの本で読んだことがあります。

ロベスピエールの斧=サンソン
フランス革命が勃発し、それでも王を処罰する法律はない。王は法を超越した存在。そもそもルイ16世は何も悪事に手を染めていない。王を処刑するなどもってのほかという王党派に対し、急進的なジャコバン派の棟梁ロベスピエールは「王の処刑なくして革命なし」と説いて投票の結果、王の処刑が決まります。
サンソンは王の命で処刑人をやっているのに、その王を処刑せねばならなくなった。その葛藤は如何ばかりか。サンソンはこういったそうです。「ロベスピエールは斧をふるうが、私は単なる斧である」。
王をはじめ、マリー・アントワネット、ダントンなどあまたの反革命分子を処刑する主体はロベスピエールであり、自分はその道具にすぎない、と。ロベスピエールに対する反感はあったでしょうが、それが法が定めた結果ならと、サンソンは黙って従う。多いときは1日に50人も処刑したそうです。その頃にはギロチンが発明されていて、サンソンはロープを引いて離すだけでよかったらしいですが。
それにしても、そんなにたくさんの人間を直接手にかけているのはサンソンであり、よく精神がもったな、と思う。「法」というものはそれほどサンソンにとって大きい後ろ盾だったのでしょうか。それがたとえ政敵を葬るだけの悪法だとしても。
しかし、そのサンソンでさえ、ロベスピエールがすべての政敵を葬るために作った「プレリアール22日法」には従うのが苦しかったようです。プレリアール22日法とは、証人尋問や被告側の弁論なしで陪審員の心証だけで判決を下す究極の「恐怖政治法」。刑罰は死刑のみ。しかも有罪となれば被告のみならず一族郎党すべて有罪。愛人や愛人の召使まで処刑されたといいますから苛烈そのもの。ロベスピエールは暗殺未遂などがあって保身のために必死だったのですね。
サンソンは、有罪人の愛人の召使の年端もいかない女の子がギロチンにかけられるときの「あなたたち、本当にこれでいいのですか」というつぶやきに激しく心を動かされたとか。それでもやっぱりサンソンは法に殉じ、斧であることに徹して彼女を処刑する。
そして結局、ロベスピエールもクーデターによって有罪となり、サンソンが処刑しました。
生き死にが「政治」になった時代

サンソンは、彼がギロチンにかけた人々の最期の姿を克明に日記に記していたそうです。
そのなかでとても興味を惹かれる一節がありました。
「かつて私が牢獄の中に入っていくと、みんなうろたえ、嘆き悲しんだものだった。それがいまでは、私に微笑みかけてくる者さえいる」
ロベスピエールによって無理やり反革命分子にされた活動家たちには、己の最期を余裕のある毅然とした態度で飾ることでロベスピエールを嗤ってやろうという意思があったと思われます。
だから死ぬことが恐いくせに恐くないふりをし、処刑人サンソンにさえ微笑みかける。処刑の際にどう振る舞うかを政敵との駆け引きにしているのです。自分の生き死にさえ「政治」にせざるをえない。それが自由・平等・友愛を掲げたフランス革命の末路、恐怖政治というものの正体だったのかもしれません。
サンソンはあまたの人間を処刑しましたが、誰も彼を「王の手先」とか「ロベスピエールの傀儡」などと非難する者はいませんでした。当然、裁判にかけられることもなかった。でも私はそれはちょっとかわいそうな気がします。
なぜなら、それこそ彼が差別の対象だったことの証しだからです。同じ「市民」として見られていない。もちろん、裁判にかけられていたら間違いなく有罪でしょう。でも、もしかしたらサンソンは心の底ではそれを望んでいたのではないか。いずれにしても、市民と見られていないがゆえに、フランス革命の中心にいてその成り行きをつぶさに見てきたにもかかわらず、革命の主体にも客体にもならず、ただ傍観者として見つめたのみ。
先祖代々処刑人という家柄と法に殉じた男、シャルル・アンリ・サンソン。その心の闇は如何ばかりだったか。例の日記はくだんの召使の女の子を処刑した10日後に突然終わっているとか。その後も少しだけ処刑人として仕事をつづけたあと、息子に代を譲って引退。10年ほど庭いじりなど余生を楽しみ、死去。
彼の日記(サンソン家回顧録というそうです)を読みたいと思わせる良質な番組でした。

コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。