先日、マクドナルドで自分の原稿を添削していたとき、店内ラジオで、夏休み特別企画と称して、「子どもに聞く大切な質問」みたいなコーナーがありました。

その質問とは……


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「たくさんの友だち」と「たった一人の親友」のどちらがいいか、というもの。私なら迷うことなく「たった一人の親友」だが、と思いながら聴いていると、子どもの答えはこんなものでした。

「たくさんの友だちです。たった一人の親友はとても仲がいいかもしれないけど、その人の意見しか聞けないからです。たくさんの友だちがいれば、いろんな意見が聞ける。偏りがなくなるからそのほうがいいと思います」

何だか少しも小学生らしくない答えでいやでしたね。

まず、友だちって「意見を聞く」ための存在なの? という疑問があります。それなら、ネットであまたの人の意見を聞くことができるんだから友だちなんかいらなくなってしまいます。

しかし、このような正論では最初に感じた「いや」な気持ちの正体がつかめません。あの「小学生らしくない」つまり「ませた」感じの正体とは?

それは何より、その子が他者を「手段」としてしか見ていない、ということでしょう。

カントの有名な定言命法に、

「汝の他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」

というのがあります。

その子は友だちという大切な他者を手段として利用しているだけなんですね。ここにも昨今の日本社会がその罠に陥っている「役に立つか否か」という考え方がひそんでいます。

その子は友だちというものを「自分にとって役に立つかどうか」だけで考えている。それが間違いなのは言うまでもありません。

人間を使用価値(=金銭的価値)でしか見ない態度。格付け社会のなれの果てがこれです。

しかし、もっと大きな問題もあるような気もします。子どもの答えではなく、「たくさんの友だちとたった一人の親友のどちらがいいか」という問いのほうに。


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この人たちは「結果的に」こうなったんですよね?

いろんな人と出逢い、仲を深め、あるいは離反し、ということを繰り返すなかで、たくさんの友人を得た、あるいは、たった一人の親友を得た。

このどちらがいいかということを、これから友だちを作っていこうとしている子どもに聞くのはおかしい。そんなことを聞いてしまったらその子は、

たくさんの友だちを得るために行動する。
たった一人の親友を得るために行動する。

いずれを選んでも、人との出逢い、人との付き合いを功利的に考えてしまうようになる。

実際、そういう人は世の中にはたくさんいます。あいつは好きじゃないけど仲良くしといたほうがあとあと得だろう、というような考え方ですね。(←書いてるだけでおぞましい)

それもまた他者を「手段」としてのみ考えるという間違いを犯しています。

結局、この問答では、問うほうも答えるほうも同じ間違いを犯していた、ということ。聞いている間、ずっといやな気持ちが収まらなかったのはそういうわけだったのですね。

もっと自由に!

カントによれば、「自由」とは「自由になれ」という命令(義務)を遂行することだとか。どういうことかよくわかりませんが、それはまた別の話。

(↓友情を考えるにもってこいの映画↓)



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