もう結構前ですけど、ある小説家の方が、
「いまコロナを描かないとSFになる。そういう葛藤を抱えていない作家はいないと思う」
と言っていて、一見正論のように見えるけれど、「本当にそうか?」という疑念がすぐ湧きました。でもそれをうまく言葉にすることができなかったんですが、このたび、やっとわかった気がします。
コロナ小説?
そう言ってる私も実は去年、コロナ禍を舞台に短編小説を書いたんですけどね。しかしながら、あれは「いまコロナが蔓延してるからコロナを描かないとアクチュアルな小説にならない」と考えたわけではなく、当時跳梁跋扈していた自粛警察からいろいろ連想していて思いついた物語でした。
でも、コロナと真正面から取り組むつもりがなかったので、コロナに関する話なのか、自粛警察にかこつけたサスペンス譚なのか、よくわからない代物になってしまった憾みがあります。
コロナ禍をフィクションに取り入れた作品として私がすぐ思い出すのはクドカンの『俺の家の話』ですね。
『俺の家の話』と『姉ちゃんの恋人』
この作品はなぜコロナ禍でマスクをしているという設定なのか、よくわかりませんでした。「介護」や「認知症」という今風の題材を取り入れているからコロナを取り入れないと「いまを描いたことにならない」と作者たちが考えたのかどうか。(単純に役者の顔がちゃんと見れなくてイライラしたのは私だけではないはず)
コロナを描かないと「2020年や「2021年」(そしておそらく「2022年」も)を描いたことにはならないのでしょうか?
そんなことはない。
『俺の家の話』の1クール前、有村架純主演の『姉ちゃんの恋人』では、明らかに「2020年」が舞台だとわかる物語設定でした。回想シーンのトイレットペーパーの買い占めではみんなマスクしていたのに、現在のシーンでは誰もマスクをしていなかった(あれは回想でもマスクしてないほうがよかった)。
コロナでいろいろつらかった、不自由を強いられた今年だからこそ特別なクリスマスイベントを、という物語だけど、役者の顔がちゃんと見れるようにマスクはしないし、ソーシャルディスタンスも取らない。
画像の観覧車のシーンはかなり意図的なものと思われます。脚本家・岡田惠和さんの、ソーシャルディスタンスなんか描かなくても、つまりコロナを直截的に描かなくても2020年を描くことはできるんだ! という宣言だったように思います。
『戦争と一人の女』
もう10年近く前の映画ですが、文科省を辞めた寺脇研さんが製作、荒井晴彦さんが脚本を書いた『戦争と一人の女』という映画がありました。
荒井さんが見た学生から感想を募ると、
「戦争中なのにセックスばかりしてるのはリアリティがない・共感できない」
という感想が多数派を占めていてげんなりさせられたと言っていました。
そうなんですよね。戦争中だからといって戦争ばかりしていたわけじゃない。そもそも沖縄以外の本土は空襲の被害には遭ったけど、実際の戦場にはならなかったし、戦争中だからといって不自由ばかり強いられていたわけでもなかった。
コロナ禍のいまだってそうでしょう? 今日、東京都で初めて新規感染者が3000人を超え、全国でも初の8000人超。なのに、都下では緊急事態宣言中であるにもかかわらず、やはりオリンピックという祭りで浮かれているからか、みんな気持ちが緩んでいる。だから中止にせよと言ったのに。
というのはまた別の話ですが、戦争中だからといって国民がみな戦争のことばかり考えていたわけではないのと同じように、コロナ禍だからといってみんながみんなコロナのことばかり考えてるわけじゃない。
コロナを描かなければ2020年や2021年を描いたことにはならない? いやいや、それを裏返せば、コロナさえ描けば2020年・2021年を描いたことになってしまう。それは違うと思う。
「時代」をどう捉えるか
おまえは生まれる時代を間違えた。とよく言われます。幕末、あるいはテロが横行した大正から昭和初期、あるいは68年革命の時代がおまえには似つかわしい、と。
私自身、そうかなと思わないでもないんですが、一番現在に近い68年でさえ、68年当時はどうか知らないが、その年に学生であるためには戦後すぐに生まれないといけないわけで、戦後すぐなんて日本全国ボットン便所でしょ? それがいやなんですよ。
政治的なことを考えたら、私という人間は68年に合っているのかもしれない。でも毎日あの臭すぎるボットン便所なんて絶対いや。田舎で使ったことはあるけど、あまりに行くのがいやで、我慢のあまりウンコもらしちゃったほどですから。
68年革命の闘士だって四六時中革命のことを考えていたわけではないでしょう? 政治よりもまずその時代で生活をしないといけないわけで。生活を抜きに「時代」を考えることは不毛です。
コロナは人々の生活を根本から変えたとは言われるけれど、変わってないところのほうが多いのでは?
料理、食事、歯磨き、トイレ、洗濯、掃除、etc. 特に変わってない。そりゃ買い物はマスクして行かなきゃいけないし、食事前後の消毒を念入りにとかはあるにしても。
10年後、20年後あるいは50年後、100年後に「2020年」や「2021年」のことを振り返るとやはり「新型コロナウイルス」というキーワードが登場するでしょう。政治的・社会的なことを振り返るならそれでいいと思う。
でも人々の「生活」を考える場合、コロナ禍だからといってみんなコロナのことばっかり考えてたわけじゃなかったよね? 一番感染がひどかったときにオリンピックで日本スゴイってなってたよね? という言説が支配的になる気がしますが、どうでしょうか。
「いまコロナを描かないとSFになる。そういう葛藤を抱えていない作家はいないと思う」
と言っていて、一見正論のように見えるけれど、「本当にそうか?」という疑念がすぐ湧きました。でもそれをうまく言葉にすることができなかったんですが、このたび、やっとわかった気がします。
コロナ小説?
そう言ってる私も実は去年、コロナ禍を舞台に短編小説を書いたんですけどね。しかしながら、あれは「いまコロナが蔓延してるからコロナを描かないとアクチュアルな小説にならない」と考えたわけではなく、当時跳梁跋扈していた自粛警察からいろいろ連想していて思いついた物語でした。
でも、コロナと真正面から取り組むつもりがなかったので、コロナに関する話なのか、自粛警察にかこつけたサスペンス譚なのか、よくわからない代物になってしまった憾みがあります。
コロナ禍をフィクションに取り入れた作品として私がすぐ思い出すのはクドカンの『俺の家の話』ですね。
『俺の家の話』と『姉ちゃんの恋人』
この作品はなぜコロナ禍でマスクをしているという設定なのか、よくわかりませんでした。「介護」や「認知症」という今風の題材を取り入れているからコロナを取り入れないと「いまを描いたことにならない」と作者たちが考えたのかどうか。(単純に役者の顔がちゃんと見れなくてイライラしたのは私だけではないはず)
コロナを描かないと「2020年や「2021年」(そしておそらく「2022年」も)を描いたことにはならないのでしょうか?
そんなことはない。
『俺の家の話』の1クール前、有村架純主演の『姉ちゃんの恋人』では、明らかに「2020年」が舞台だとわかる物語設定でした。回想シーンのトイレットペーパーの買い占めではみんなマスクしていたのに、現在のシーンでは誰もマスクをしていなかった(あれは回想でもマスクしてないほうがよかった)。
コロナでいろいろつらかった、不自由を強いられた今年だからこそ特別なクリスマスイベントを、という物語だけど、役者の顔がちゃんと見れるようにマスクはしないし、ソーシャルディスタンスも取らない。
画像の観覧車のシーンはかなり意図的なものと思われます。脚本家・岡田惠和さんの、ソーシャルディスタンスなんか描かなくても、つまりコロナを直截的に描かなくても2020年を描くことはできるんだ! という宣言だったように思います。
『戦争と一人の女』
もう10年近く前の映画ですが、文科省を辞めた寺脇研さんが製作、荒井晴彦さんが脚本を書いた『戦争と一人の女』という映画がありました。
荒井さんが見た学生から感想を募ると、
「戦争中なのにセックスばかりしてるのはリアリティがない・共感できない」
という感想が多数派を占めていてげんなりさせられたと言っていました。
そうなんですよね。戦争中だからといって戦争ばかりしていたわけじゃない。そもそも沖縄以外の本土は空襲の被害には遭ったけど、実際の戦場にはならなかったし、戦争中だからといって不自由ばかり強いられていたわけでもなかった。
コロナ禍のいまだってそうでしょう? 今日、東京都で初めて新規感染者が3000人を超え、全国でも初の8000人超。なのに、都下では緊急事態宣言中であるにもかかわらず、やはりオリンピックという祭りで浮かれているからか、みんな気持ちが緩んでいる。だから中止にせよと言ったのに。
というのはまた別の話ですが、戦争中だからといって国民がみな戦争のことばかり考えていたわけではないのと同じように、コロナ禍だからといってみんながみんなコロナのことばかり考えてるわけじゃない。
コロナを描かなければ2020年や2021年を描いたことにはならない? いやいや、それを裏返せば、コロナさえ描けば2020年・2021年を描いたことになってしまう。それは違うと思う。
「時代」をどう捉えるか
おまえは生まれる時代を間違えた。とよく言われます。幕末、あるいはテロが横行した大正から昭和初期、あるいは68年革命の時代がおまえには似つかわしい、と。
私自身、そうかなと思わないでもないんですが、一番現在に近い68年でさえ、68年当時はどうか知らないが、その年に学生であるためには戦後すぐに生まれないといけないわけで、戦後すぐなんて日本全国ボットン便所でしょ? それがいやなんですよ。
政治的なことを考えたら、私という人間は68年に合っているのかもしれない。でも毎日あの臭すぎるボットン便所なんて絶対いや。田舎で使ったことはあるけど、あまりに行くのがいやで、我慢のあまりウンコもらしちゃったほどですから。
68年革命の闘士だって四六時中革命のことを考えていたわけではないでしょう? 政治よりもまずその時代で生活をしないといけないわけで。生活を抜きに「時代」を考えることは不毛です。
コロナは人々の生活を根本から変えたとは言われるけれど、変わってないところのほうが多いのでは?
料理、食事、歯磨き、トイレ、洗濯、掃除、etc. 特に変わってない。そりゃ買い物はマスクして行かなきゃいけないし、食事前後の消毒を念入りにとかはあるにしても。
10年後、20年後あるいは50年後、100年後に「2020年」や「2021年」のことを振り返るとやはり「新型コロナウイルス」というキーワードが登場するでしょう。政治的・社会的なことを振り返るならそれでいいと思う。
でも人々の「生活」を考える場合、コロナ禍だからといってみんなコロナのことばっかり考えてたわけじゃなかったよね? 一番感染がひどかったときにオリンピックで日本スゴイってなってたよね? という言説が支配的になる気がしますが、どうでしょうか。
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