話題沸騰中の『プロミシング・ヤング・ウーマン』。私にはどうにも乗れない復讐劇でした。(以下ネタバレあり。他の映画の結末にも触れています。ご注意あれ!)
『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020、イギリス・アメリカ)
脚本・監督:エメラルド・フェネル
出演:キャリー・マリガン、ボー・バーナム、アリソン・ブリー
あるべき復讐映画とは
1996年製作の『スリーパーズ』という映画がありました。あれなどは、自分たちをいじめた少年院の看守に対し復讐を果たした仲間を無罪にして喜び合う内容で、いやいや、復讐映画なんだから看守を見つけ出して殺すのが最後でないといけないんじゃないの? とげんなりしました。
私が「復讐映画のあるべき姿」と思うのは何といっても阪本順治監督の『トカレフ』で、たとえこの身が滅んでもあいつだけは絶対に許さない! という強い思いがあるかどうかが鍵です。だから『スリーパーズ』や『39 刑法第三十九条』のように「復讐を果たして同時に無罪を勝ち取ろう」などという映画は姑息に思えるのです。
その点、この『プロミシング・ヤング・ウーマン』は潔い。主人公キャシーが自分の命を懸けて事に及んでいる。私の考える「あるべき復讐映画」です。
では何がいけないのか?
「物語」と「脚本」
かつて医大生で将来を嘱望されたキャシーは、性的暴行を受けて自殺したニーナという親友のために主犯アル・モンローはじめその場にいた男たちに復讐を仕掛けます。
(性的暴行事件⇒ドロップアウト⇒)復讐を仕掛ける⇒殺される⇒一発大逆転で復讐完遂
という流れになるのですが、この「物語」自体は特に面白くないですよね。目新しくも何ともない。
でも「脚本」はうまい。上の括弧でくくったところはファーストシーンが始まる以前の出来事で、画面には一切出てきません。そうです。最重要人物であるニーナを登場させないのです。これは非常に勇気のある作劇ですが、大正解でしょう。もし回想シーンがあったら凡俗な映画になっていたと思われます。
回想がないうえに主人公が復讐を仕掛ける相手に小出しにしか情報を出さないのがまたうまい。焦らされるとよけい知りたくなってくる観客の心理をうまく読んでいます。実際にどんなことがあったのか、キャシーとニーナはどれぐらい深い関係だったのか。同性愛? 同性愛ではないけどものすごく深い友人関係? とか、想像に任されているぶん、はっきり見せられるより上質な香りが漂ってきます。
では何がダメなのか?
まず、最後にひねりがなさすぎですよね。キャシーが殺される。殺されるといっても殺意があったわけではない。正当防衛が認められるかもしれないのに警察に行かずに死体を焼いてしまうというアル・モンローたちの行動がどうかと思うのですが、でも、彼らなら警察なんか行かず、すべてを闇に葬るだろうというのがキャシーの計算だったのでしょう。
そこは百歩譲るとしても、復讐の主が殺された時点で「もし自分が行方不明になったら~」というのを用意してるんだろうな、と予想できちゃいますよね。そしてその通りになる。何のひねりもない。キャシーの計算通りには行かなかったが、別のところからボロが出てアル・モンローたちが逮捕、ということになれば快哉を叫んだんですがね。その「別のところ」というのは何か、いいアイデアが思いつかないので恐縮ですけど。
すべて主人公の計算通りに運んでしまう(しかもクライマックスで)というのは芸がなさすぎます。
1945年製作の『哀愁の湖』は、復讐の主が死んでもそこから30分くらいさらに復讐が続いていく、という意外性があって面白かった。
でも、以上はすべてラストに関することで「乗れない」理由ではありません。私が乗れなかった最大の理由は以下です。
なぜ実家を出ていかないのか
私自身が数年前まで実家に寄生していたのであまり偉そうなことは言えませんが、しかし、だからこそ主人公が実家に寄生している設定の脚本をよく書いてたんですよね。
そのことについて長谷川和彦監督から言われました。
「現実には、親に頼って生きている人間はたくさんいるだろう。そういう人たちのことをとやかく言うつもりはない。だがフィクションにおいては、何かあっても親が守ってくれる人間には共感しにくい。君自身がそういう人間だから似たような主人公を描いてしまうのかもしれないが、主人公を甘やかしてはいけない」
確かに『青春の殺人者』も『太陽を盗んだ男』も、主人公は自分で自分を破滅に追い込む愚か者ですが、自分の足で立っている。親に甘えるどころか、甘えられる存在がなくて孤立している。それが悲劇の根っこになっていました。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』では、キャシーはニーナの死後、実家に帰ります。傷心のあまり医者になる道なんかどうでもよくなりドロップアウトする。そこまではいいです。その気持ちはよくわかる。父親も「ニーナのことは残念だったがおまえは帰ってきてくれた」と言うように、彼女はとても愛されています。愛してくれる両親のもとで思いきり泣くことができてよかったと思います。
しかしそれなら、夜な夜な泥酔した振りをして下卑た男たちに罠を張って天誅を下したりするのはいけないんじゃないですかね? ああいうことをやりたい気持ちはよくわかります。しかし、あのようなことをしていたら捕まるかもしれないし、殺されるかもしれない。
キャシーはニーナへの想いが強すぎて、両親が自分を愛してくれていることにあまりに無自覚です。
ニーナを失って自暴自棄になっている自分と同じように、もし自分が死んだら両親が悲嘆に暮れるだろうことにあまりに無頓着です。
女を性的玩具としか思ってない男に天誅を下したいならすればいい。復讐を果たしたいならすればいい。
でも、それなら実家を出るべきだった。せっかく両親が「実家を出ていけというメタファー」としてスーツケースをプレゼントしてくれたんだから。なぜあそこで出なかったのか。あそこで実家を出て、一人暮らしをしながらどうやって復讐するかを練って実行に移して完遂したのであれば「乗れる復讐映画」として快哉を叫んだでしょう。
そりゃ、実家を出たって娘が殺されたという知らせが来たら両親は嘆き悲しむでしょう。しかし、自分が死んだら確実に悲嘆にくれる人たちに食わせてもらいながら復讐計画を考える主人公には共感できない。自分の死によって復讐を完遂する計画を立てた以上、彼女は実家を出るべきでした。
私の考える『プロミシング・ヤング・ウーマン』の瑕疵はそれだけです。しかしその瑕疵は、クライマックスを見ながら白けてしまうほど大きいものでした。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020、イギリス・アメリカ)
脚本・監督:エメラルド・フェネル
出演:キャリー・マリガン、ボー・バーナム、アリソン・ブリー
あるべき復讐映画とは
1996年製作の『スリーパーズ』という映画がありました。あれなどは、自分たちをいじめた少年院の看守に対し復讐を果たした仲間を無罪にして喜び合う内容で、いやいや、復讐映画なんだから看守を見つけ出して殺すのが最後でないといけないんじゃないの? とげんなりしました。
私が「復讐映画のあるべき姿」と思うのは何といっても阪本順治監督の『トカレフ』で、たとえこの身が滅んでもあいつだけは絶対に許さない! という強い思いがあるかどうかが鍵です。だから『スリーパーズ』や『39 刑法第三十九条』のように「復讐を果たして同時に無罪を勝ち取ろう」などという映画は姑息に思えるのです。
その点、この『プロミシング・ヤング・ウーマン』は潔い。主人公キャシーが自分の命を懸けて事に及んでいる。私の考える「あるべき復讐映画」です。
では何がいけないのか?
「物語」と「脚本」
かつて医大生で将来を嘱望されたキャシーは、性的暴行を受けて自殺したニーナという親友のために主犯アル・モンローはじめその場にいた男たちに復讐を仕掛けます。
(性的暴行事件⇒ドロップアウト⇒)復讐を仕掛ける⇒殺される⇒一発大逆転で復讐完遂
という流れになるのですが、この「物語」自体は特に面白くないですよね。目新しくも何ともない。
でも「脚本」はうまい。上の括弧でくくったところはファーストシーンが始まる以前の出来事で、画面には一切出てきません。そうです。最重要人物であるニーナを登場させないのです。これは非常に勇気のある作劇ですが、大正解でしょう。もし回想シーンがあったら凡俗な映画になっていたと思われます。
回想がないうえに主人公が復讐を仕掛ける相手に小出しにしか情報を出さないのがまたうまい。焦らされるとよけい知りたくなってくる観客の心理をうまく読んでいます。実際にどんなことがあったのか、キャシーとニーナはどれぐらい深い関係だったのか。同性愛? 同性愛ではないけどものすごく深い友人関係? とか、想像に任されているぶん、はっきり見せられるより上質な香りが漂ってきます。
では何がダメなのか?
まず、最後にひねりがなさすぎですよね。キャシーが殺される。殺されるといっても殺意があったわけではない。正当防衛が認められるかもしれないのに警察に行かずに死体を焼いてしまうというアル・モンローたちの行動がどうかと思うのですが、でも、彼らなら警察なんか行かず、すべてを闇に葬るだろうというのがキャシーの計算だったのでしょう。
そこは百歩譲るとしても、復讐の主が殺された時点で「もし自分が行方不明になったら~」というのを用意してるんだろうな、と予想できちゃいますよね。そしてその通りになる。何のひねりもない。キャシーの計算通りには行かなかったが、別のところからボロが出てアル・モンローたちが逮捕、ということになれば快哉を叫んだんですがね。その「別のところ」というのは何か、いいアイデアが思いつかないので恐縮ですけど。
すべて主人公の計算通りに運んでしまう(しかもクライマックスで)というのは芸がなさすぎます。
1945年製作の『哀愁の湖』は、復讐の主が死んでもそこから30分くらいさらに復讐が続いていく、という意外性があって面白かった。
でも、以上はすべてラストに関することで「乗れない」理由ではありません。私が乗れなかった最大の理由は以下です。
なぜ実家を出ていかないのか
私自身が数年前まで実家に寄生していたのであまり偉そうなことは言えませんが、しかし、だからこそ主人公が実家に寄生している設定の脚本をよく書いてたんですよね。
そのことについて長谷川和彦監督から言われました。
「現実には、親に頼って生きている人間はたくさんいるだろう。そういう人たちのことをとやかく言うつもりはない。だがフィクションにおいては、何かあっても親が守ってくれる人間には共感しにくい。君自身がそういう人間だから似たような主人公を描いてしまうのかもしれないが、主人公を甘やかしてはいけない」
確かに『青春の殺人者』も『太陽を盗んだ男』も、主人公は自分で自分を破滅に追い込む愚か者ですが、自分の足で立っている。親に甘えるどころか、甘えられる存在がなくて孤立している。それが悲劇の根っこになっていました。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』では、キャシーはニーナの死後、実家に帰ります。傷心のあまり医者になる道なんかどうでもよくなりドロップアウトする。そこまではいいです。その気持ちはよくわかる。父親も「ニーナのことは残念だったがおまえは帰ってきてくれた」と言うように、彼女はとても愛されています。愛してくれる両親のもとで思いきり泣くことができてよかったと思います。
しかしそれなら、夜な夜な泥酔した振りをして下卑た男たちに罠を張って天誅を下したりするのはいけないんじゃないですかね? ああいうことをやりたい気持ちはよくわかります。しかし、あのようなことをしていたら捕まるかもしれないし、殺されるかもしれない。
キャシーはニーナへの想いが強すぎて、両親が自分を愛してくれていることにあまりに無自覚です。
ニーナを失って自暴自棄になっている自分と同じように、もし自分が死んだら両親が悲嘆に暮れるだろうことにあまりに無頓着です。
女を性的玩具としか思ってない男に天誅を下したいならすればいい。復讐を果たしたいならすればいい。
でも、それなら実家を出るべきだった。せっかく両親が「実家を出ていけというメタファー」としてスーツケースをプレゼントしてくれたんだから。なぜあそこで出なかったのか。あそこで実家を出て、一人暮らしをしながらどうやって復讐するかを練って実行に移して完遂したのであれば「乗れる復讐映画」として快哉を叫んだでしょう。
そりゃ、実家を出たって娘が殺されたという知らせが来たら両親は嘆き悲しむでしょう。しかし、自分が死んだら確実に悲嘆にくれる人たちに食わせてもらいながら復讐計画を考える主人公には共感できない。自分の死によって復讐を完遂する計画を立てた以上、彼女は実家を出るべきでした。
私の考える『プロミシング・ヤング・ウーマン』の瑕疵はそれだけです。しかしその瑕疵は、クライマックスを見ながら白けてしまうほど大きいものでした。
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