久しぶりに両親のことを書きます。
これまでと違い、路上で気絶して前歯を3本折ったとか、良性か悪性かわからないがとにかく腫瘍が認められたとか、そういう物騒な話ではなく、静かに不気味な話です。


犬の先が長くない
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両親はともに80代なんですが、犬と一緒に3人で暮らしています。犬も老犬で、もうすぐ16歳の誕生日。人間でいえば両親と同じかもっと年上かもしれません。

もう1年以上前からあんなに好きだった散歩にも行かなくなりました。夜は2階の両親の部屋で寝るんですが、自力で階段を上がることができない。母親がハーネスでもち上げて上まで一緒に上がるそうです。

この犬の衰え方が尋常ではなく、こないだは「安楽死させてやったほうがいいんじゃないか」などと鬼畜な日記を書いてしまいましたが、ちょうど1か月ぶりに帰省した今回はさらに衰えていて、眠っているのか死んでいるのかわからないほど。音がすると反応するので少しは安心ですが、時間とともにそれもなくなり、老衰で死ぬのも時間の問題、というのが私の見方。

でも両親はそうは少しも思っておらず、次の誕生日が来たらそこからの1年が正念場とか言っている。私に言わせれば再来月の誕生日を迎えられるかどうかも怪しいのに。前の犬が17歳で死んだから、それまで生きるのは当然のように思っている。

だから心配なのです。犬が死ぬ心構えができていない。死んだら母親も悲しむでしょうが、誰よりも溺愛していた父親が悲しむでしょう。そしてただでさえ細くなりすぎた食欲はさらに細くなり、衰弱していくのではないか。

とはいえ、犬が死んだら親父の死期も早まるだろうというのは何年も前から思っていたことなのです。


雪崩が起こる
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問題は、それが何年か先でなく、もう目の前に来ていること。そして、犬が死に、父親が死ねば、母が一人になる。いまは認知症の父親のために自分がしっかりしないと、というのがあると思うんですよね。犬のためにも自分が長生きしてやらなきゃ、とも思っているはず。でも、その犬と父親が立て続けに死に、家で独りになると、急速に衰え、そしてボケるのではないか。死期も早まる。

だから、いま現在、犬が支えなのです。あいつがかろうじて実家のすべてを支えてくれている。近い将来、その大黒柱が突然なくなる。すると、なし崩し的にすべてが……

いまは帰る家がある。その家がなくなるというのはどんな感じなのだろうか。幼いうちに両親を亡くした人からすれば恵まれた人生なのだろうけど、とても恐ろしい。

病気や怪我ならまだ対処のしようがあるけれど、老衰ですからね。

数年前に母親は階段の最後の一段を踏み外して手首を骨折しました。もっと上の段で踏み外してそのまま逝ってしまうということだって充分ありうる。それもこれも、いまは犬が防いでくれているのですよ。こいつを残して先に死ねない、という気持ちが両親の足腰を支えてくれている。その支えがそのうちなくなる。

このところの大黒柱の衰え方は半端ではない。雪崩が見える。


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