アンソニー・ホプキンスが大本命チャドウィック・ボウズマンをかわして2回目のアカデミー主演男優賞に輝いた『ファーザー』。
『ファーザー』(2020、イギリス・フランス)
脚本:クリストファー・ハンプトン&フロリアン・ゼレール
監督:フロリアン・ゼレール
出演:アンソニー・ホプキンス、オリビア・コールマン、オリビア・ウィリアムズ、ルーファス・ウィーウェル
父親が認知症
私の場合、父親が認知症なので他人事じゃないし、予告編などを見るかぎりではアンソニー・ホプキンスのほうがよっぽど重症らしいので、父親の未来を見せてもらうつもりで見に行きました。
不条理ホラーとして出色の出来映え
見始めてしばらくしてから驚きました。想像していたのとぜんぜん違ったので。
何しろ、アンソニー・ホプキンスの娘はオリビア・コールマンだったのに、ある場面ではオリビア・ウィリアムスに変わる。彼女の夫として登場した平凡な風采の男は実は夫ではなく、本当はルーファス・シーウェルが夫役。
つまり、アンソニー・ホプキンスは認知症なのでわからなくなっているんですね。オリビア・コールマンが娘でルーファス・シーウェルがその夫と書きましたけど、それも怪しい。逆かもしれない。本当は娘のオリビア・ウィリアムスが介護人に見えたり、老人ホームの職員に見えたりしているのかもしれない。
いずれにしても、認知症の人の不安と恐怖を言葉で説明するのではなく、ちゃんと映像として見せてくれるので「映画」の悦びに満ち溢れていましたね。「これはまったく新しい形のホラーだ!」と感激しながら見てましたから。
『タイタニック』
しかし、見終わると何だか釈然としません。劇場から出てきて頭に浮かんだのは『タイタニック』でした。
あれは確かに面白い映画ですが、面白がっちゃいけないと思うんですよ。正確にいえば「観客が面白がるように作ってはいけない」。
だって、2000人近くの人が実際に命を落とした未曽有の大惨事を扱ってるんですから。現実の悲劇を架空の悲恋物語の「背景」として利用するなんて倫理的に許されはずがありません。
社会問題に材を取った映画として
この『ファーザー』も同様かと問われると、許せないとまでは思いません。実際、認知症がどういうものかわからない人が疑似体験できるように作られているので、そういう意味では価値の高い映画だと思います。
でも、やっぱり『タイタニック』と同様、「認知症という社会問題を娯楽として消費している」という後ろめたさから逃れることができません。
娯楽映画だから気軽にこの映画を面白がる人がいる。その人たちの口コミでもっと多くの人が見に来る。実際そういう感じでミニシアター系としてはヒットしているようです。
認知症を娯楽映画の題材として扱うと、気軽に映画を楽しみたいだけの人々を啓蒙できる利点があります。一方で、娯楽として消費して、あー面白い映画を見た! で終わってしまう危険性も高い。社会問題を社会問題として見ず、認知症ってコワイねと他人事として見て簡単に忘れてしまう可能性が高い。
ラストシーンのあとが見たかった
何だかんだの末に、娘夫婦が遠くへ引っ越してしまい、アンソニー・ホプキンスは老人ホームへ入れられます。それもいつ入れられたのかわからない。気がついたら施設にいて大混乱。自分のみじめな境涯に耐えられなくなり、職員の胸の中で泣き崩れます。
私はこのラストはいかがなものかと思いました。父親が実際に認知症だからなのか、本人が自分の病気に絶望するラストはものすごく中途半端な気がしたんです。
自分の病気に怯え、泣き崩れるシーンは物語の中盤、いわゆるミッドポイントに設定するべきではなかったか。少なくともターニングポイント2に設定して、そこからの第3幕は、自分が認知症と知った主人公が病気にどう立ち向かっていくかを見せてほしかった。
あそこで終わったのでは、それこそ「認知症を娯楽として消費している」ことになってしまうと思うんです。
具体的にどういうシーンを描けばいいのかはまったく思いつきませんが、主人公が病気に立ち向かい、何とか克服していく姿を描いてくれれば満足できたんじゃないか。
同じ泣き崩れるラストでも、立ち向かって克服しようとしたけどダメだった、で泣き崩れるんであればまだしも感動があったように思います。
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許せない映画⑦『タイタニック』
『ファーザー』(2020、イギリス・フランス)
脚本:クリストファー・ハンプトン&フロリアン・ゼレール
監督:フロリアン・ゼレール
出演:アンソニー・ホプキンス、オリビア・コールマン、オリビア・ウィリアムズ、ルーファス・ウィーウェル
父親が認知症
私の場合、父親が認知症なので他人事じゃないし、予告編などを見るかぎりではアンソニー・ホプキンスのほうがよっぽど重症らしいので、父親の未来を見せてもらうつもりで見に行きました。
不条理ホラーとして出色の出来映え
見始めてしばらくしてから驚きました。想像していたのとぜんぜん違ったので。
何しろ、アンソニー・ホプキンスの娘はオリビア・コールマンだったのに、ある場面ではオリビア・ウィリアムスに変わる。彼女の夫として登場した平凡な風采の男は実は夫ではなく、本当はルーファス・シーウェルが夫役。
つまり、アンソニー・ホプキンスは認知症なのでわからなくなっているんですね。オリビア・コールマンが娘でルーファス・シーウェルがその夫と書きましたけど、それも怪しい。逆かもしれない。本当は娘のオリビア・ウィリアムスが介護人に見えたり、老人ホームの職員に見えたりしているのかもしれない。
いずれにしても、認知症の人の不安と恐怖を言葉で説明するのではなく、ちゃんと映像として見せてくれるので「映画」の悦びに満ち溢れていましたね。「これはまったく新しい形のホラーだ!」と感激しながら見てましたから。
『タイタニック』
しかし、見終わると何だか釈然としません。劇場から出てきて頭に浮かんだのは『タイタニック』でした。
あれは確かに面白い映画ですが、面白がっちゃいけないと思うんですよ。正確にいえば「観客が面白がるように作ってはいけない」。
だって、2000人近くの人が実際に命を落とした未曽有の大惨事を扱ってるんですから。現実の悲劇を架空の悲恋物語の「背景」として利用するなんて倫理的に許されはずがありません。
社会問題に材を取った映画として
この『ファーザー』も同様かと問われると、許せないとまでは思いません。実際、認知症がどういうものかわからない人が疑似体験できるように作られているので、そういう意味では価値の高い映画だと思います。
でも、やっぱり『タイタニック』と同様、「認知症という社会問題を娯楽として消費している」という後ろめたさから逃れることができません。
娯楽映画だから気軽にこの映画を面白がる人がいる。その人たちの口コミでもっと多くの人が見に来る。実際そういう感じでミニシアター系としてはヒットしているようです。
認知症を娯楽映画の題材として扱うと、気軽に映画を楽しみたいだけの人々を啓蒙できる利点があります。一方で、娯楽として消費して、あー面白い映画を見た! で終わってしまう危険性も高い。社会問題を社会問題として見ず、認知症ってコワイねと他人事として見て簡単に忘れてしまう可能性が高い。
ラストシーンのあとが見たかった
何だかんだの末に、娘夫婦が遠くへ引っ越してしまい、アンソニー・ホプキンスは老人ホームへ入れられます。それもいつ入れられたのかわからない。気がついたら施設にいて大混乱。自分のみじめな境涯に耐えられなくなり、職員の胸の中で泣き崩れます。
私はこのラストはいかがなものかと思いました。父親が実際に認知症だからなのか、本人が自分の病気に絶望するラストはものすごく中途半端な気がしたんです。
自分の病気に怯え、泣き崩れるシーンは物語の中盤、いわゆるミッドポイントに設定するべきではなかったか。少なくともターニングポイント2に設定して、そこからの第3幕は、自分が認知症と知った主人公が病気にどう立ち向かっていくかを見せてほしかった。
あそこで終わったのでは、それこそ「認知症を娯楽として消費している」ことになってしまうと思うんです。
具体的にどういうシーンを描けばいいのかはまったく思いつきませんが、主人公が病気に立ち向かい、何とか克服していく姿を描いてくれれば満足できたんじゃないか。
同じ泣き崩れるラストでも、立ち向かって克服しようとしたけどダメだった、で泣き崩れるんであればまだしも感動があったように思います。
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