去年劇場公開されながら見逃していたケン・ローチ監督最新作『家族を想うとき』をWOWOWにて鑑賞しました。(以下ネタバレあります)
『家族を想うとき』(2019、イギリス・フランス・ベルギー)
脚本:ポール・ラバティ
監督:ケン・ローチ
出演:クリス・ヒッチェン、デビー・ハニーウッド
さすがケン・ローチ
リッキーはアビーという妻と、息子セブ、娘ライザの4人家族。無職のリッキーが面接を受けるシーンから始まるのですが、面接シーンから始まる映画といえば『タクシードライバー』などいろいろ名作が多いので(他にどんなタイトルがあるかすぐに浮かびませんが)期待が高まりました。面接官で職場での直属の上司?となるマロニーを演じるロス・ブリュースターという役者がやたらいい味出してるのでよけいにね。
しかしそこは『わたしは、ダニエル・ブレイク』や『ブレッド&ローズ』のケン・ローチ。物騒な暴力映画に突き進むわけがなく、マロニーからひどい言葉を次々に受け、搾取される労働者リッキーの悲哀を丁寧に描いていきます。
ケン・ローチがさすがだなと思うのは、役者に自然な芝居をさせているところ。ほんとにこういう貧困にあえぐ下流階級の家庭ってあるんだろうな、と思わせる。セブのグレ方もリアルだし、昔の家族に戻ってほしいと仕事に必要な車のキーを盗んでいたライザも子どものリアリティがありました。マロニーもいまどきの配送業者にほんとに存在してもぜんぜんおかしくない。手持ちカメラにはいつも辛口な私でも、本作の手持ちにはそれほど嫌気が差すこともなく、リッキーたちの哀しみに寄り添うことができました。
だから演出はいいんですよ。問題は脚本です。
「それだけはやってはいけないんだ」
専門学校で脚本を学んでいた頃、ある企画を出しました。良きお父さんになるための学校があると知った私はそれを題材に企画書を提出したのです。企画書だから当然プロットをつけます。それを読んだクラスの講師はこう言いました。
「君はこの企画で何をやりたいの?」
「父親になるための学校なんてナンセンスじゃないですか。だからそんな学校に行く奴や学校経営者たちを笑い飛ばしてやろうと」
「あのね、それだけはやっちゃいけないんだよ」
「それだけは」の「それ」とは何か。
自分がナンセンスだと思う人たち、悪い奴らだと思う人たちをやっつける、ということです。
確かに父親になるための学校なんてナンセンスだと講師も言いました。でもこうも言いました。私が学校のホームページのURLを教えて見てもらったら「なるほど、確かに嘘くさいし偽善の匂いがプンプンする。でもね、この中にも一片の真理はあるはずなんだ」
「自分を正義の側において、自分とは価値観の相容れない人たちを不正義として糾弾する。それは書いてて気持ちいいだろうけど、読む者/見る者の心は打たない」
父親になるための学校をナンセンスだと思う人がいる一方で、こういう学校に通う人がいる。それぞれに言い分がある。どちらがいいとか悪いとかではなく、それぞれの言い分をフィフティフィフティで描けば深いドラマになる。なぜそういう学校が出現したのか、その原因に迫れば、きっと「親って何だろう。いい親って何だろう」というところまで下りていけると思うんだよね、と。
私がこのブログで何度も引き合いに出している、ある高名な脚本家の言、「善と善の対立がドラマを深くする」とまったく同じですね。プロの脚本家にとっては当たり前のことらしい。
「犯罪者を悪い奴だと糾弾する人間は作家の目で世界を見ていない」とも講師は言っていました。
確かにパトリシア・ハイスミスなんかは犯罪者をいい奴とも悪い奴とも描いてませんものね。淡々とその人らしい言動だけを追っていく。あの冷徹さはかなり醒めた目で世界を見つめていないと出てこないものでしょう。
超格差社会の原因とは
「個人事業主として雇われる」という語義矛盾の雇用形態は、当然健康保険や年金もないんだろうし、休むなら代わりの者を入れろと言うのも無茶。それは雇用側がやることでしょ、と主張したって「なら罰金だ!」の一言で従わざるをえない。
いくら何でもひどいと思うのが人情でしょうが、これがドキュメンタリーとかニュースならいいんですが、映画ですからね。物語である以上は、マロニーの言い分というか、彼や彼の会社、その雇用形態を生んだ土壌は何か、というところまで思考を伸ばしていかないといけないと思います。
最後、暴力を受けたうえにマロニーから多額の罰金や弁償金を請求されるリッキーが、半死半生の身でありながら職場へ赴こうとするところで映画は幕を閉じます。
ここで我々観客が感じるのは新自由主義が生み出した超格差社会への激しい怒りです。それはケン・ローチはじめ脚本家のポール・ラヴァティなど製作陣全員の想いなのでしょう。
が、怒りに燃えた目には、資本主義が行き着いた超格差社会の原因が少しも見えてきません。激しい怒りに燃えてケン・ローチは引退宣言を撤回して本作を撮ったらしいですが、怒りを原動力にすることは是としても、怒りに燃えた目で現象を見つめるのは非です。
パトリシア・ハイスミスのように冷徹な目で社会を見つめてほしかった。というのが、偽らざる正直な想いです。
『家族を想うとき』(2019、イギリス・フランス・ベルギー)
脚本:ポール・ラバティ
監督:ケン・ローチ
出演:クリス・ヒッチェン、デビー・ハニーウッド
さすがケン・ローチ
リッキーはアビーという妻と、息子セブ、娘ライザの4人家族。無職のリッキーが面接を受けるシーンから始まるのですが、面接シーンから始まる映画といえば『タクシードライバー』などいろいろ名作が多いので(他にどんなタイトルがあるかすぐに浮かびませんが)期待が高まりました。面接官で職場での直属の上司?となるマロニーを演じるロス・ブリュースターという役者がやたらいい味出してるのでよけいにね。
しかしそこは『わたしは、ダニエル・ブレイク』や『ブレッド&ローズ』のケン・ローチ。物騒な暴力映画に突き進むわけがなく、マロニーからひどい言葉を次々に受け、搾取される労働者リッキーの悲哀を丁寧に描いていきます。
ケン・ローチがさすがだなと思うのは、役者に自然な芝居をさせているところ。ほんとにこういう貧困にあえぐ下流階級の家庭ってあるんだろうな、と思わせる。セブのグレ方もリアルだし、昔の家族に戻ってほしいと仕事に必要な車のキーを盗んでいたライザも子どものリアリティがありました。マロニーもいまどきの配送業者にほんとに存在してもぜんぜんおかしくない。手持ちカメラにはいつも辛口な私でも、本作の手持ちにはそれほど嫌気が差すこともなく、リッキーたちの哀しみに寄り添うことができました。
だから演出はいいんですよ。問題は脚本です。
「それだけはやってはいけないんだ」
専門学校で脚本を学んでいた頃、ある企画を出しました。良きお父さんになるための学校があると知った私はそれを題材に企画書を提出したのです。企画書だから当然プロットをつけます。それを読んだクラスの講師はこう言いました。
「君はこの企画で何をやりたいの?」
「父親になるための学校なんてナンセンスじゃないですか。だからそんな学校に行く奴や学校経営者たちを笑い飛ばしてやろうと」
「あのね、それだけはやっちゃいけないんだよ」
「それだけは」の「それ」とは何か。
自分がナンセンスだと思う人たち、悪い奴らだと思う人たちをやっつける、ということです。
確かに父親になるための学校なんてナンセンスだと講師も言いました。でもこうも言いました。私が学校のホームページのURLを教えて見てもらったら「なるほど、確かに嘘くさいし偽善の匂いがプンプンする。でもね、この中にも一片の真理はあるはずなんだ」
「自分を正義の側において、自分とは価値観の相容れない人たちを不正義として糾弾する。それは書いてて気持ちいいだろうけど、読む者/見る者の心は打たない」
父親になるための学校をナンセンスだと思う人がいる一方で、こういう学校に通う人がいる。それぞれに言い分がある。どちらがいいとか悪いとかではなく、それぞれの言い分をフィフティフィフティで描けば深いドラマになる。なぜそういう学校が出現したのか、その原因に迫れば、きっと「親って何だろう。いい親って何だろう」というところまで下りていけると思うんだよね、と。
私がこのブログで何度も引き合いに出している、ある高名な脚本家の言、「善と善の対立がドラマを深くする」とまったく同じですね。プロの脚本家にとっては当たり前のことらしい。
「犯罪者を悪い奴だと糾弾する人間は作家の目で世界を見ていない」とも講師は言っていました。
確かにパトリシア・ハイスミスなんかは犯罪者をいい奴とも悪い奴とも描いてませんものね。淡々とその人らしい言動だけを追っていく。あの冷徹さはかなり醒めた目で世界を見つめていないと出てこないものでしょう。
超格差社会の原因とは
「個人事業主として雇われる」という語義矛盾の雇用形態は、当然健康保険や年金もないんだろうし、休むなら代わりの者を入れろと言うのも無茶。それは雇用側がやることでしょ、と主張したって「なら罰金だ!」の一言で従わざるをえない。
いくら何でもひどいと思うのが人情でしょうが、これがドキュメンタリーとかニュースならいいんですが、映画ですからね。物語である以上は、マロニーの言い分というか、彼や彼の会社、その雇用形態を生んだ土壌は何か、というところまで思考を伸ばしていかないといけないと思います。
最後、暴力を受けたうえにマロニーから多額の罰金や弁償金を請求されるリッキーが、半死半生の身でありながら職場へ赴こうとするところで映画は幕を閉じます。
ここで我々観客が感じるのは新自由主義が生み出した超格差社会への激しい怒りです。それはケン・ローチはじめ脚本家のポール・ラヴァティなど製作陣全員の想いなのでしょう。
が、怒りに燃えた目には、資本主義が行き着いた超格差社会の原因が少しも見えてきません。激しい怒りに燃えてケン・ローチは引退宣言を撤回して本作を撮ったらしいですが、怒りを原動力にすることは是としても、怒りに燃えた目で現象を見つめるのは非です。
パトリシア・ハイスミスのように冷徹な目で社会を見つめてほしかった。というのが、偽らざる正直な想いです。
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