2021年03月28日

『怪奇大作戦』考察の第2弾は第7話の「青い血の女」。

製作当時(1968年)すでに「独居老人」とか「現代の姥捨て山」とかそういうのが問題になっていたんですね。50年以上前にすでに核家族化が始まっていたことは知識としてしか知らなかったので驚きました。


物語のあらまし
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SRIの三沢(勝呂誉)の旧友の周りで殺人事件が起こり、どうもその旧友の父親(浜村純)が関与しているらしいことがわかる。浜村純は愛情をたっぷり注いで手塩にかけて育てた息子がいまでは自分をないがしろにし、妻と二人で仲睦まじく暮らしていることを理由に息子を憎んでいる。

三沢も襲われるが、犯人が逃げたと思われるガラス窓はほんの小さな子どもくらいしか通れないほどの穴が開いているだけ。どうやら実行犯は浜村純の人形らしいのだが、人形が自分で人殺しなどするはずがない。

操っているのは浜村純かと思ったら、実は彼が現在愛情を注いでいる女。

しかし、その女の正体も……


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人形だった!

浜村純の殺意を察知して人形仲間に殺人をやらせていたというすごいオチ。しかし、彼女もまた屋上から身を投げて自殺する。「自分もいつかはお爺さんを捨てて出ていく。だから……」と言って。


愛情とその裏返しの憎しみ
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つまり、すべては浜村純の「過剰な愛情」が原因だったというわけです。

いくら愛情を注いでもいつかは子どもは親のもとから巣立つ。それを親は祝福せねばならないのに、自分を捨てたと逆恨みする。おそらく、あの息子はそんな父親がうっとうしかったのでしょう。私も同じ境涯だからよくわかります。

ずっと以前、毎日新聞の万能川柳の年間大賞に、

「深いのは どっちだろうか 愛と憎」

というのが選ばれました。浜村純も愛情が深すぎて息子を憎んでいる。殺したいほど。もう愛しているのか憎んでいるのかどっちなのかわからない。いや、どっちもなんでしょう。

そして、息子と同じ思いをあの「青い血の女」も感じていたのでしょう。過剰な愛情が疎ましい。でも浜村純のことは好きである。だから彼を捨て、自分への殺意を抱く前に自分のほうが死んでしまえばいい。

人形が考えるにはあまりに切なすぎる思いですが、わかる気がする。


神と悪魔の関係に似る
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キリスト教の世界観では、悪魔は神が作ったそうです。そうしないと都合が悪いですよね。神がこの世のすべてを創造したことになっているのだから。

でも、善なる神がなぜ悪魔を作ったのか、という疑問が湧きます。

そのために考え出されたのが「堕天使」という概念です。

神の怒りを買った天使が地獄に落とされ、悪魔となってよみがえった、と。


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子どものために注いでいた愛情が憎しみに変わるのと似ていますよね。いや、キリスト教の理屈っぽい考え方より、親の過剰な愛情が子どもを苦しめ親を捨てさせる。捨てられた親は子どもを憎む。

という愛情が憎しみに反転するこのドラマを見るほうが「善が悪を生むのだ」というこの世の真理に容易に到達できると思うのは私だけではありますまい。

そして、架空の存在である人形は親を思えばこそ自死した。しかし現代の姥捨てではそのような美談はありません。悪魔も自殺したりしません。神を殺そうと狙っている。あんな親なんか死んでしまえばいいと願う子どものように。

「あれ(青い血の女)は何だったんだ?」という感想がネット上にはあるようですが、あれは現代の姥捨てにおける美談はファンタジーでしかありえない、という作者たちの諦観の象徴だと思います。


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