蓮實重彦の新著『見るレッスン 映画史特別講義』(光文社新書)を読みました。そして蓮實が映画における「脚本」というものへの決定的な誤りを犯していると感じました。

「死ぬまで表層批評宣言!」
「見るレッスン」と銘打ちながら、あの映画はいい、あの監督はすごい、あの映画はだめ、あのショットはだめとただ単に好き嫌いを言い募っているだけの本でした。どこが「見るレッスン」やねん、と。
しかも、『スピオーネ』を見ずにフリッツ・ラングを語るなとか、最近ツイッター界隈で「痛い連中」と揶揄されている人たちと同じスノッブな感じも相変わらずだな、と思いました。
そして蓮實が昔から言っている「物語より画面だ」「心理より運動だ」という「映っているものがすべて」という表層批評的な物言いにはいいかげんうんざりしました。
蓮實が若い頃は物語やテーマばかりを読む批評が幅を利かせていてそのアンチテーゼとして表層批評宣言をした気持ちはよくわかるし、私だって若い頃は例えば『映像の詩学』とか『監督 小津安二郎』などの名著で勉強させていただいた口ですがね。でも、もう蓮實重彦的な映画批評は決定的に古いと思う。
「物語より画面だ、ショットだ」じゃなくて、「物語もショットも」だと思うんですよね。両方大事。どちらかがより大事なんてありえない。運動も大事だし人物の心理の動きだって同じくらい大事。ジョン・フォードも大事だしウィリアム・ワイラーも大事。すべてにおいて二者択一の問題にしてしまうこのお爺さんは老害を振りまいているとしか思えませんでした。
「脚本がわからない」

この本の最後のほうで蓮實は、
「わたくしは、シナリオというものが映画にとっていかなる存在であるかということがいまだによくわかりません」
と語っています。よくわからないのに「映画を見るときに脚本家というものにほとんど興味がない」と平気で言っている。つまり映画の価値を語るにあたって脚本など度外視したいということなのでしょう。
それはそれでひとつの見識でしょうが、私は蓮實重彦という男は決定的な間違いを犯していると思う。彼はおそらく「脚本を文学の一分野だと勘違いしている」のです。
脚本は文字で書かれなくてもいい

脚本は普通は言語によって書かれます。しかし言語によって書かれねばならないなどという決まりはありません。脚本原理主義者の荒井晴彦さんなら「そうに決まっている」と言うでしょうが、しかし、実のところそんな決まりはないのです。
なぜ決まりがないのに誰も彼も言語で書くかというと、人間は言語を介したほうが「幻想」を共有しやすいからです。プロデューサー、脚本家、監督、俳優、カメラマン、美術監督、照明技師、録音技師、編集マン、etc. 映画に関わるすべての人が、いま自分たちが作ろうとしている映画がどういうものか、その青写真を描くのに言語で書いたほうがわかりやすい。それだけの話です。
監督がカメラマンと打ち合わせをするときは絵コンテを描きますよね。カメラマンと幻想を共有する場合は言語より絵のほうがわかりやすいからです。
だから脚本家がファーストシーンからラストシーンまで絵コンテを描いたっていいと思うんですよ。言語で「柱」「ト書き」「セリフ」の3つから成るいわゆる「脚本」というものを書かねばならないなどという決まりはないのです。監督とカメラマンの二人で絵コンテだけ描いたものを「脚本」として全スタッフが幻想を共有してもぜんぜんかまわない。
でも、蓮實重彦はおそらく「脚本は言語によって書かれねばならない」と思い込んでいる。
ジョン・フォードがプロデューサーから時間が押してると急かされたとき、脚本の数ページを破り捨てて撮影したエピソードが本書で紹介されていますが、もしその映画の脚本が全編絵コンテで、フォードがその絵コンテの数枚を破って捨てたとしたら、蓮實はそのエピソードを称揚したでしょうか。「ゴダールがそれを模倣した」と鬼の首を取ったような物言いで紹介したでしょうか。
していないはずです。画面がすべて、ショットがすべてだという人間が、そのショットをどう撮るかの土台として作った絵コンテをないがしろにする行為を許容するはずがない。だから蓮實の頭の中には「脚本=文字で書かれた物語」という等式があるはずなのです。
何かの本で「文学ごときが映画ほど高級であるはずがない」みたいなことを言ってましたが、文学的な匂いのする「脚本」というものを貶めることが表層批評家である自分の責務だと勘違いしているのだと思います。
「脚本⇆映画」という混沌

脚本と完成した映画の関係を考えるときに大事なのは、黒沢清監督の、
「編集というのは脚本を完成させる作業だと思っています」
という言葉だと思います。
映画『アカルイミライ』の冒頭はオダギリジョーがゲームセンターでシューティングゲームか何かをしている場面ですが、もともとの脚本のファーストシーンは違います。脚本で中盤ぐらいのシーンを頭にもってきているのです。そうやって脚本が完成する。
蓮實は完成した脚本があって、それをもとに撮影した映画があると思っている。「脚本→映画」という不可逆の流れしか頭にない。
でも、本当は脚本をとりあえずは完成させて(プリ・プロダクション)それをもとに撮影(プロダクション)しますが、時間が押したりして途中をカットせざるをえなくなったりして、そのたびに脚本は変化します。そして編集(ポスト・プロダクション)においても場面を入れ替える必要が出てきたりして、そこでも脚本は変化します。
つまり、実際の映画作りは「脚本→映画」という一方的な流れではなく、「脚本⇆映画」という混沌としたものなのです。
文字で書かれようがそうでなかろうが、「脚本⇆映画」という混沌は変わりません。脚本と映画は表裏一体なものなのです。
何十年も映画を見てきて、そんな基本的なこともわかっていないことに苛立ちました。


「死ぬまで表層批評宣言!」
「見るレッスン」と銘打ちながら、あの映画はいい、あの監督はすごい、あの映画はだめ、あのショットはだめとただ単に好き嫌いを言い募っているだけの本でした。どこが「見るレッスン」やねん、と。
しかも、『スピオーネ』を見ずにフリッツ・ラングを語るなとか、最近ツイッター界隈で「痛い連中」と揶揄されている人たちと同じスノッブな感じも相変わらずだな、と思いました。
そして蓮實が昔から言っている「物語より画面だ」「心理より運動だ」という「映っているものがすべて」という表層批評的な物言いにはいいかげんうんざりしました。
蓮實が若い頃は物語やテーマばかりを読む批評が幅を利かせていてそのアンチテーゼとして表層批評宣言をした気持ちはよくわかるし、私だって若い頃は例えば『映像の詩学』とか『監督 小津安二郎』などの名著で勉強させていただいた口ですがね。でも、もう蓮實重彦的な映画批評は決定的に古いと思う。
「物語より画面だ、ショットだ」じゃなくて、「物語もショットも」だと思うんですよね。両方大事。どちらかがより大事なんてありえない。運動も大事だし人物の心理の動きだって同じくらい大事。ジョン・フォードも大事だしウィリアム・ワイラーも大事。すべてにおいて二者択一の問題にしてしまうこのお爺さんは老害を振りまいているとしか思えませんでした。
「脚本がわからない」

この本の最後のほうで蓮實は、
「わたくしは、シナリオというものが映画にとっていかなる存在であるかということがいまだによくわかりません」
と語っています。よくわからないのに「映画を見るときに脚本家というものにほとんど興味がない」と平気で言っている。つまり映画の価値を語るにあたって脚本など度外視したいということなのでしょう。
それはそれでひとつの見識でしょうが、私は蓮實重彦という男は決定的な間違いを犯していると思う。彼はおそらく「脚本を文学の一分野だと勘違いしている」のです。
脚本は文字で書かれなくてもいい

脚本は普通は言語によって書かれます。しかし言語によって書かれねばならないなどという決まりはありません。脚本原理主義者の荒井晴彦さんなら「そうに決まっている」と言うでしょうが、しかし、実のところそんな決まりはないのです。
なぜ決まりがないのに誰も彼も言語で書くかというと、人間は言語を介したほうが「幻想」を共有しやすいからです。プロデューサー、脚本家、監督、俳優、カメラマン、美術監督、照明技師、録音技師、編集マン、etc. 映画に関わるすべての人が、いま自分たちが作ろうとしている映画がどういうものか、その青写真を描くのに言語で書いたほうがわかりやすい。それだけの話です。
監督がカメラマンと打ち合わせをするときは絵コンテを描きますよね。カメラマンと幻想を共有する場合は言語より絵のほうがわかりやすいからです。
だから脚本家がファーストシーンからラストシーンまで絵コンテを描いたっていいと思うんですよ。言語で「柱」「ト書き」「セリフ」の3つから成るいわゆる「脚本」というものを書かねばならないなどという決まりはないのです。監督とカメラマンの二人で絵コンテだけ描いたものを「脚本」として全スタッフが幻想を共有してもぜんぜんかまわない。
でも、蓮實重彦はおそらく「脚本は言語によって書かれねばならない」と思い込んでいる。
ジョン・フォードがプロデューサーから時間が押してると急かされたとき、脚本の数ページを破り捨てて撮影したエピソードが本書で紹介されていますが、もしその映画の脚本が全編絵コンテで、フォードがその絵コンテの数枚を破って捨てたとしたら、蓮實はそのエピソードを称揚したでしょうか。「ゴダールがそれを模倣した」と鬼の首を取ったような物言いで紹介したでしょうか。
していないはずです。画面がすべて、ショットがすべてだという人間が、そのショットをどう撮るかの土台として作った絵コンテをないがしろにする行為を許容するはずがない。だから蓮實の頭の中には「脚本=文字で書かれた物語」という等式があるはずなのです。
何かの本で「文学ごときが映画ほど高級であるはずがない」みたいなことを言ってましたが、文学的な匂いのする「脚本」というものを貶めることが表層批評家である自分の責務だと勘違いしているのだと思います。
「脚本⇆映画」という混沌

脚本と完成した映画の関係を考えるときに大事なのは、黒沢清監督の、
「編集というのは脚本を完成させる作業だと思っています」
という言葉だと思います。
映画『アカルイミライ』の冒頭はオダギリジョーがゲームセンターでシューティングゲームか何かをしている場面ですが、もともとの脚本のファーストシーンは違います。脚本で中盤ぐらいのシーンを頭にもってきているのです。そうやって脚本が完成する。
蓮實は完成した脚本があって、それをもとに撮影した映画があると思っている。「脚本→映画」という不可逆の流れしか頭にない。
でも、本当は脚本をとりあえずは完成させて(プリ・プロダクション)それをもとに撮影(プロダクション)しますが、時間が押したりして途中をカットせざるをえなくなったりして、そのたびに脚本は変化します。そして編集(ポスト・プロダクション)においても場面を入れ替える必要が出てきたりして、そこでも脚本は変化します。
つまり、実際の映画作りは「脚本→映画」という一方的な流れではなく、「脚本⇆映画」という混沌としたものなのです。
文字で書かれようがそうでなかろうが、「脚本⇆映画」という混沌は変わりません。脚本と映画は表裏一体なものなのです。
何十年も映画を見てきて、そんな基本的なこともわかっていないことに苛立ちました。


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