昨日、昼休みに同僚さんとおしゃべりしていたら、いま書いている小説の話になりまして、難航しているとか何とか喋ったんですけど、頭の中では過去のあれやこれやが渦を巻いていました。

以前、こんな記事を書きました。
いつか本を書きたいという人の心性について

いつか本を書きたいと言っていた友人がいました。バイト仲間がいました。お互い嫌い合っていた同僚さんがいました。関係は違いこそすれ、みな「書きたい」と言いながら「何も書いていない」のでした。

書いたけどうまくいかないから読んでみてほしい。

というのならわかります。でも、「いつか書きたい」という憧れは憧れのまま終わります。

だって、本当に書きたいならもうすでに書いてるはずでしょ。子どもが絵を描きたいと思ったら「いつか絵を描きたい」なんて言わずに落書きを始めますよね。

確かにいい歳をした大人が落書きなんて描きたくない。ちゃんとした絵を描きたい。その気持ちはわかります。

でも、まず落書きから始めなければちゃんとした絵に到達することはできません。

落書きを見せるなんて恥ずかしい。などと言っている人にこそ言いたい。

何かを作る、何かを表現するということは、恥をかくということです。恥をかきたくないと言っている人は一生何かを作ることなどできません。


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星飛雄馬の記念すべき大リーグボール1号は「バットに当てる魔球」でした。

桁外れの剛速球、針の穴を通すコントロールをもちながら、ただ体が小さいという理由だけで軽い球しか投げられず、最初はスピードで強打者の度肝を抜いても、そのうち簡単にホームランを打たれるようになる。

そう盟友の伴宙太に告げられた飛雄馬は自暴自棄になりながら、次第に「打たせて取る魔球」の開発に挑みます。

それが大リーグボール1号。いくら打たれまいとしても飛雄馬のボールはプロの打者には簡単に打ててしまう。だから「打たれて結構。いやもう一歩進んで打ってもらおう」という逆転の発想なのでした。


ashamed

恥をかくのはいやだ? 落書きなんて見せられない?

そんなことを言っていてはだめ。

笑われて結構。いやもう一歩進んで自ら笑ってもらおう。

そういう意識が創作者には必要だと信じて疑いません。

おそらくそういう意識のことを「才能」というのです。


創作の極意と掟 (講談社文庫)
筒井康隆
講談社
2017-07-14



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