第8話で怒涛の転回を見せた『35歳の少女』は特に波乱のない第9話を経て最終回に至りましたが、がっかり拍子抜けというか、あまりに平凡な結末が残念極まりなかったというのが正直なところです。
前回までの記事
感想①主役は柴咲コウではなく鈴木保奈美なのか
感想②本音と建て前をめぐるドラマ
夢は素晴らしいというイデオロギー
一番いやだったのは、登場人物がみな自分の夢に向かうところですね。
柴咲コウはアナウンサーへの道が開ける。
橋本愛はグラフィックデザイナーの登竜門で優秀賞を受賞する。
田中哲司は若い頃からの夢だった一級建築士を目指す。
彼の息子は父親の前職ハウスメーカーへの就職を希望する。
柴咲コウがアナウンサーになれたのはたまたま披露宴で司会役を仰せつかったからで、単なる偶然です。橋本愛が受賞できたのは実力なんでしょうが、そんな実力をもっていたのになぜいままで営業職だったのでしょうか。
田中哲司が建築士の夢をもっていたなんて視聴者は最終回で初めて知るし、いきなりそんなこと言われても、と戸惑いました。
3年ほど前に『はじめてのボーイ・ミーツ・ガール』という映画がありました。「夢をもつことは素晴らしい」と無条件に信じている不快な映画でした。
そこに何の葛藤もないからです。
柴咲コウは唯一自分が夢に向かっていいのだろうかと葛藤しますが、坂口健太郎の甘い言葉に乗せられて北海道に行くことを決意する。葛藤はあってないに等しい。
しかもそこで母親の幻影と再会してもね。
都合よく退場した鈴木保奈美
この母親が一番主人公のことを心配し、尽くしてきたのだから、幻影なんかではなく、現実で再会すべきではなかったでしょうか。
遊川和彦さんが前回、鈴木保奈美が死ぬ展開にした気持ちはよくわかります。
鈴木保奈美が生きていると、田中哲司は富田靖子の親子と気持ちよく再起することにはならなかっただろうし、橋本愛がデザイナーを目指すといっても「元カレの誘いを断るなんてやめなさい」と諭したでしょう。柴咲コウの北海道行きには反対しなかったかもですが、鈴木保奈美がいると何かと邪魔になるのは確か。だから死ぬことにした。
私もずっと以前に書いた脚本で、「この人物がいると何かと展開の邪魔なんだよな」と思ったとき、殺される展開にしました。するとあるプロの脚本家からえらく叱られました。
「君は自分がこうしたいという展開のためにこの人物が殺されて物語の舞台から都合よく退場するようにしている。こういうのをご都合主義という」
鈴木保奈美が死ぬのは完全にご都合主義だと思います。死なず、何かと邪魔だけれど、そこを乗り越えて、やはり「家族四人ですき焼きを食べる場面」を見たかった。
この『35歳の少女』は何より「すき焼き」がキーワードでしょう? それがいつの間にか忘れられ、「夢」というキーワードにすり替えられてしまいました。
ニートや引きこもりはダメな存在なのか
どうしようもない引きこもり青年だった彼も、父親と同じハウスメーカーになると言います。その意気やよし。でも釈然としません。
昨年のちょうどいまごろ、生田斗真主演の『俺の話は長い』というドラマがありました。生田斗真はニートで、最終回でスーツを着て面接に行く彼の姿がハッピーエンドのように描かれていました。
働かないニートより、普通に働く人間のほうがよっぽど偉いし、そうあるべき。
というのは、あくまで「社会通念上」そうなだけで、「本当にそうだろうか?」と疑問を投げかけるのがフィクションの役目だと思うんですが、『俺の話は長い』も『35歳の少女』も社会通念に負けてしまっています。そんなありふれた価値観をぶち壊す独自の哲学を打ち出してほしかった。
哲学といえば、かつて長谷川和彦監督に自作脚本を読んでもらったとき、こんなことを言われました。
「君はシナリオとは物語だと思ってるんだろうが違うんだ。物語と哲学なんだよ」
『35歳の少女』第8話は、オリジナルな哲学にあふれてましたよね。それが最終回では世間的な価値観の前にひざまずいてしまった。
「私たちは英雄なんかじゃない。普通の人間だ。でも、人を愛することはできる。幸せを願うことはできる」
「もしかしたら、私たちはみんな、いつか胸を張ってこう言えるのを願いながら生きているのかもしれない。これがあたしだ」
みたいなナレーションで幕を閉じますが、この作品は結局「自分探しの物語」だったのでしょうか?
違いますよね。「時間」というモチーフはどこへ行ってしまったのでしょうか。
25年の眠りから目覚めた10歳の少女が、1年間いろんな経験を経たうえで達した人生哲学が上記のナレーションなんですかね?
鈴木保奈美が生きていたらおそらくそんな呑気なことは言ってられなかったでしょう。
だからこそ、彼女は死ぬべきではなかった。
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『はじまりのボーイ・ミーツ・ガール』感想(「夢は素晴らしい」というイデオロギー)
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一番いやだったのは、登場人物がみな自分の夢に向かうところですね。
柴咲コウはアナウンサーへの道が開ける。
橋本愛はグラフィックデザイナーの登竜門で優秀賞を受賞する。
田中哲司は若い頃からの夢だった一級建築士を目指す。
彼の息子は父親の前職ハウスメーカーへの就職を希望する。
柴咲コウがアナウンサーになれたのはたまたま披露宴で司会役を仰せつかったからで、単なる偶然です。橋本愛が受賞できたのは実力なんでしょうが、そんな実力をもっていたのになぜいままで営業職だったのでしょうか。
田中哲司が建築士の夢をもっていたなんて視聴者は最終回で初めて知るし、いきなりそんなこと言われても、と戸惑いました。
3年ほど前に『はじめてのボーイ・ミーツ・ガール』という映画がありました。「夢をもつことは素晴らしい」と無条件に信じている不快な映画でした。
そこに何の葛藤もないからです。
柴咲コウは唯一自分が夢に向かっていいのだろうかと葛藤しますが、坂口健太郎の甘い言葉に乗せられて北海道に行くことを決意する。葛藤はあってないに等しい。
しかもそこで母親の幻影と再会してもね。
都合よく退場した鈴木保奈美
この母親が一番主人公のことを心配し、尽くしてきたのだから、幻影なんかではなく、現実で再会すべきではなかったでしょうか。
遊川和彦さんが前回、鈴木保奈美が死ぬ展開にした気持ちはよくわかります。
鈴木保奈美が生きていると、田中哲司は富田靖子の親子と気持ちよく再起することにはならなかっただろうし、橋本愛がデザイナーを目指すといっても「元カレの誘いを断るなんてやめなさい」と諭したでしょう。柴咲コウの北海道行きには反対しなかったかもですが、鈴木保奈美がいると何かと邪魔になるのは確か。だから死ぬことにした。
私もずっと以前に書いた脚本で、「この人物がいると何かと展開の邪魔なんだよな」と思ったとき、殺される展開にしました。するとあるプロの脚本家からえらく叱られました。
「君は自分がこうしたいという展開のためにこの人物が殺されて物語の舞台から都合よく退場するようにしている。こういうのをご都合主義という」
鈴木保奈美が死ぬのは完全にご都合主義だと思います。死なず、何かと邪魔だけれど、そこを乗り越えて、やはり「家族四人ですき焼きを食べる場面」を見たかった。
この『35歳の少女』は何より「すき焼き」がキーワードでしょう? それがいつの間にか忘れられ、「夢」というキーワードにすり替えられてしまいました。
ニートや引きこもりはダメな存在なのか
どうしようもない引きこもり青年だった彼も、父親と同じハウスメーカーになると言います。その意気やよし。でも釈然としません。
昨年のちょうどいまごろ、生田斗真主演の『俺の話は長い』というドラマがありました。生田斗真はニートで、最終回でスーツを着て面接に行く彼の姿がハッピーエンドのように描かれていました。
働かないニートより、普通に働く人間のほうがよっぽど偉いし、そうあるべき。
というのは、あくまで「社会通念上」そうなだけで、「本当にそうだろうか?」と疑問を投げかけるのがフィクションの役目だと思うんですが、『俺の話は長い』も『35歳の少女』も社会通念に負けてしまっています。そんなありふれた価値観をぶち壊す独自の哲学を打ち出してほしかった。
哲学といえば、かつて長谷川和彦監督に自作脚本を読んでもらったとき、こんなことを言われました。
「君はシナリオとは物語だと思ってるんだろうが違うんだ。物語と哲学なんだよ」
『35歳の少女』第8話は、オリジナルな哲学にあふれてましたよね。それが最終回では世間的な価値観の前にひざまずいてしまった。
「私たちは英雄なんかじゃない。普通の人間だ。でも、人を愛することはできる。幸せを願うことはできる」
「もしかしたら、私たちはみんな、いつか胸を張ってこう言えるのを願いながら生きているのかもしれない。これがあたしだ」
みたいなナレーションで幕を閉じますが、この作品は結局「自分探しの物語」だったのでしょうか?
違いますよね。「時間」というモチーフはどこへ行ってしまったのでしょうか。
25年の眠りから目覚めた10歳の少女が、1年間いろんな経験を経たうえで達した人生哲学が上記のナレーションなんですかね?
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だからこそ、彼女は死ぬべきではなかった。
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