2020年11月14日

もう3年ぐらい前だと思いますが、『5時に夢中!』で作家の岩井志麻子がこんなことを言っていました。

「言う」と「いう」
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「あたしが小説で、誰それがなんたらというと書くとき、漢字の「言う」や「云う」じゃなく、ひらがなで「いう」と書かないとだめなんですよ。これは理由なんてなくてただしっくりこないってだけなんですけどね」

これはとてもよくわかります。私もシナリオや小説を書いてきたからか、こういうブログを書くときでも、特定の漢字への異常なこだわりがあります。

志麻子さんとは逆で、私は「言う」じゃないとだめなんですよね。○○という男が、みたいなときはもちろんひらがなで「いう」ですが(意味が違うから当たり前だけど)、英語のsayに当たる「いう」は「言う」じゃないとしっくりこない。敬愛してやまない谷崎潤一郎が「云う」と書くからと一度真似してみたんですが、「これ俺の作品じゃない」とまでは思いませんが、しっくりこなくて全部「言う」に置換した思い出があります。


「思い」と「想い」
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いま「思い出」と書きましたが、誰か好きな人、特別な人のことをおもうときの「おもう」は、私は「想う」じゃないとしっくりこないんですね。自分はこうおもうの「おもう」なら「思う」なんですが。

しかし、だからといって、特別な人との「おもいで」を「想い出」と書いたりはしないんですね。「おもいで」はいつでもどんな場合でも「思い出」と書きます。なぜだろう。自分でも不思議だけど、「想い出」なんてまるで日本語じゃないみたいな感じがします。


「見る」「観る」「診る」
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このブログでも「映画をみる」と書く場合は「見る」と書いています。でも、どうも「見る」は英語のseeで、映画をみる場合はwatch、漢字で書くと「観る」が適当らしい。

私も以前は、というか、もう20年前くらいですが、「映画を観る」と書いていたんですよ。それが上等な書き方だと思ってました。でも、そんなのは青二才の考えだとあるとき突然「見る」に変えたんです。いまでも「映画を観る」と書いてる人を見ると「気取ってるなぁ」と正直思ってしまうのです。

たいていの「みる」は「見る」と書く私ですが、医者が診察するという意味の「みる」は「診る」と書かないと気がすまない。これは意味からして「見る」ではおかしいですが、でもひらがなで「みる」とは絶対に書かない。


「聞く」「聴く」「訊く」
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「きく」にもこだわりがあって、人の話をきくなら「聞く」だし、音楽をきくなら「聴く」、質問するという意味の「きく」なら「訊く」でないとしっくりこない。まぁ最後の「訊く」はたまに「聞く」と書いたりするから、そこまでのこだわりはないようです。でも「音楽を聞く」は私としてはありえない。


「いま」と「今」
これも不思議。「今日」「今度」のように熟語として使うぶんには感じでまったく問題なし。なのに「いま何してるの?」なんて場合はひらがなで「いま」じゃないとだめなんですよ。

でも「いまはむかし」のような慣用句になると、「いまは昔」ではだめで、「今は昔」と漢字でないとしっくりこない。
これは、「今は昔」のフレーズで始まる「今昔物語集」から来ているからかな、と思いますが、理由は定かではありません。


「もつ」と「持つ」
これが一番私的には不思議な漢字ですね。

また、「今」と同じように「持続」「持参」のように熟語の場合は漢字でないとだめなんですよね。これはごく普通の感覚。

でも、「誰それが手に○○をもっている」の場合は「持っている」と書くのすごく嫌なんです。「もっている」とひらがなでないとしっくりこない。

さらに変なのは、「手持ちカメ」と「手もちカメラ」だと断然前者のほうがいいんですね。これ、おかしいでしょ。「持つ」が「持ち」になり、頭に「手」がついただけで漢字のほうがしっくりくるんです。


何だかんだと妙なこだわりを書き連ねてしまいましたが、いまだに「云う」と書く谷崎への憧れは消えてくれません。次の小説は「云う」でいってみようかな。と思う今日この頃です。



潤一郎ラビリンス〈8〉犯罪小説集 (中公文庫)
谷崎 潤一郎
中央公論新社
1998-12-18




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