2020年11月01日

事件発生から36年、すべての事件の時効が成立してからちょうど20年になるグリコ・森永事件を題材にした『罪の声』を見てきました。


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142分の長丁場をまったく退屈させずに見せきる技術はすごいと思います。売れっ子脚本家・野木亜紀子さんの構成力は生半可なものではなく、そして編集がすぐれている。改めて映画は脚本と編集だなと思ったりもしましたが、最後まで見て頭に浮かんだのは、以下の三つです。

①グリコ・森永事件はやはり映画には向いてないということ
②今年亡くなった森﨑東監督の言葉
③ブラッド・ピット主演『セブン・イヤーズ・イン・チベット』


『レディ・ジョーカー』
高村薫が1998年に上梓した大傑作『レディ・ジョーカー』は、小説は圧巻の出来映えでしたが、映画化作品は惨憺たるものでした。

事件の事実関係がまず複雑だし、未解決だからわからないところは想像力で埋めないといけないけれど、わかっていることと作ったことをつなぐときにどうしても無理なつじつま合わせが必要になってくるし、それは結局「理屈」としか感じられない。

映画はやはりヒッチコックが言うように「シンプルなストーリー」がいいようです。複雑怪奇なことは文学に任せればいい。


作家を刺激する「子どもの声」
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桐野夏生の『アンボス・ムンドス』という短編集に、『罪の声』と同じくグリコ・森永事件で脅迫に使われた子どもの声は自分の声だと気づく人物を主人公にした物語がありました。どんな内容だったかまったく憶えていないのですが、犯人グループに子どもがいた、あの子どもたちはいまどこでどうしているのか、というのは作家の想像力を大いに刺激するものなのでしょうね。


森﨑東監督の言葉
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ただ、森﨑東監督の言葉にこんなものがあります。『頭は一つずつ配給されている』か何かに載っていた言葉だと思いますが、ロッセリーニの『無防備都市』について書かれた文章の中で、

「涙でかすんだ目に真実は見えない」

というような意味のことが書かれてありました。ロッセリーニは決して涙かすんだ目で『無防備都市』を撮っていない、と。

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何を言いたいかというと、グリコ・森永事件であの子どもの声の主に着目するのはいい。そして、三人人の子どものうち一人は普通の幸せを得ているのに他の二人は悲劇の主人公しか演じられなかったという対比もいい。

しかし、そんな彼らを出汁に観客の涙を搾り取っていいのでしょうか。それは結局、金のために、闘争とやらのために、子どもたちを駒として使い、彼らの未来を犠牲にした大人たちの身勝手な行為と同じなのではないでしょうか。

そもそも、この事件で最大の悪は誰なのでしょう? 青木という男が一番悪いみたいに描かれていますが、塩見三省が語る「もし金主が中央だったら」という言葉は非常に大事なのでは?

まだ時効になる前、『闇に消えた怪人』という本で、警察関係者が「犯人はわかっています。もし名前が出たら日本中がひっくり返ります」と語ったと書かれていました。本当かどうかはわからないけれど、国家権力が関わっている可能性は充分にあるでしょう。

小栗旬が教えられたところへ行くと国会議事堂があって、「もし金主が中央だったら」という仮定はそれ以後完全に忘れられて子どもたちのお涙ちょうだい話へと堕していきます。

涙でかすんだ目で事件を見つめるからそうなってしまったんじゃないでしょうか。


『セブン・イヤーズ・イン・チベット』
1997年製作のブラッド・ピット主演『セブン・イヤーズ・イン・チベット』という映画があります。

詳しい内容は忘れましたが、ある男が冒頭、妻と夫婦喧嘩をして、家を飛び出したあとチベットへ行き、そこで7年間を過ごしたあと、家に帰って妻と仲直りするお話でした。

最後まで見たとき、「え、これって夫婦喧嘩の話だったの?」と思ってしまいました。そんな意図はないんでしょうが、チベットでの7年間が夫婦が和解するための出汁になってしまっている。


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この『罪の声』も最後まで見ると、小栗旬がジャーナリストとしての誇りを取り戻すためにあの事件で苦しんだ子供たちが利用されているような気がしました。

だから、作者たちが涙でかすんだ目で事件を見ているというより、観客に涙でかすんだ目で事件を見るように映画が作られている、というのが私の結論です。










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