2020年09月26日

2020年の本屋大賞を受賞した凪良ゆうという作家さんの小説『流浪の月』を読みましたが、非常に不快な作品でした。


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ある脚本家の言葉
私はかつて映画シナリオの専門学校に行っていたことがあり、そこで出逢った高名な脚本家の言葉が、映画を見たり本を読むときいつも脳裏に響いています。

曰く、

「善と悪の対立にしてはいけない。善と善の対立にしないとドラマは深まらない」

善と悪の対立にしようとすると、悪の側を悪く描こうとして筆が滑ってしまい、悪の魅力がないばかりか、ただの小悪党にしかならない、みたいなことも言われました。君はその罠に完全にはまっている、と。

この『流浪の月』で、主人公・更紗の恋人・亮くんがまさにそういう人物ですよね。単に気に入らないと暴力をふるって更紗を傷つけ、ネットに悪意ある情報をばらまいて更紗とその運命の人・文の二人を窮地に陥れる。

どうしても私の目には、暴力をふるう亮くんが出てくると安っぽさを感じてしまうのです。

亮くんだけではありません。文が起こした(ことにされている)事件で、更紗をケータイで撮ってネットにさらす人々、何も知らないのに文を悪者だと断じる人々にも感じます。作者が更紗の言葉として「彼らに悪意はないのだろうけど」と書くたびに白けました。悪意はないのは本当かもしれませんが、彼らを「悪」に仕立て上げるとドラマが安っぽくなるから「彼らは悪人ではない」と言い訳をしているように感じられるのです。


「善と善」の対立とは
高名な脚本家が言っていた「善と善の対立」とはどういうものでしょうか。

善とは善人のことではありません。その人の言い分に理がある、ということです。

例えば明日最終回を迎える『半沢直樹』で、前回まさかの頭取の裏切りが明らかになりました。半沢はすべてを闇から闇に葬ろうとしている頭取に向かって筋を通すべきだと難じます。半沢の言い分はもっともであり彼はまったき「善」です。

が、中野渡頭取もまた「善」なのです。なぜなら「銀行を守るため」という言葉にそれなりの理があるからです。私が中野渡さんなら同じことをするかもしれない。と思わせるものがある。半沢を応援したい気持ちはもちろんありますが、「理想だけでは飯は食えない」という幹事長の言い分にもうなずかざるをえない。あの黒幕幹事長や中野渡頭取の言い分に反感しか感じられない人は、おそらくカネで苦労したことがない人でしょう。

話がそれましたが、悪役の言い分にも納得できるなら、その作品は「善と善の対立」を描いた一級の作品ということになります。

が、この『流浪の月』の悪人たちの言い分には少しも納得できるものがない。

しかも、私は作者自身の言い分にも納得できないのです。


登場人物への愛情が感じられない
文はロリコンとして登場しますが、なぜか更紗に手は出さなかった。大人になった更紗にも性的欲求はないみたいだし、恋人ともそういう関係ではない。

しかしロリコンでもなかった。というのが最終盤でのどんでん返しなのですが、はっきり病名は書いていないものの、第二次性徴が遅れたり性器の発育が滞るなどする病気のようです。性同一性障害ではないようですね。詳しくないので知りませんが、性ホルモンがうまく分泌されない病気のようです。

どんな病気であれ、この人はこういう病気だからこうなった、病気だからこういう言動をした、あるいはしなかった、というのは人物描写としてものすごく粗雑じゃないでしょうか。もっといえば登場人物に対する愛情が感じられない。

世間の人々は文のことをロリコンと誤解して「ロリコンなんて病気だよな」と平気で言います。でも、そう書く作者自身が文を病気もちの変な人として扱っていないでしょうか。

私はごく普通に文をロリコンという設定にしてほしかった。ロリコンならなぜ幼少の頃の更紗に手を出さなかったかのかという疑問が出てきてしまいますが、それはひとまず措くとして、文をロリコンとして描いて、幼い主人公を誘拐する変態として描いて(そうです、本当に誘拐するのです)それでも最後にはロリコンの文に思わず感情移入してしまうような描写をすべきだったと思います。

『流浪の月』は、世間は誘拐と思っているけど実は誘拐じゃないとか、世間は文のことをロリコンと思っているけど実はロリコンじゃないとか、本当に「言い訳」が多い。文と更紗をできるだけきれいな人物・きれいな関係に設定しようとしていて、逆にそれが私には不快でした。

汚い設定だけど、犯罪者だけど、変態だけど、私はこの人が好きだ。

そう思えるなら諸手を挙げて絶賛しますが、現実にはひたすら作者の言い訳しか聞こえてこない不快な作品でした。

『理髪店主のかなしみ』なんて足フェチの変態主人公が最後にはいとおしくなってくるじゃないですか。

この小説を愛する人たちは、もしや、文が何も悪いことをしてないのに迫害されている、そんな文をいとおしく思う更紗だから感動したんでしょうか?

とすれば、この小説を愛する人たちは、何か悪いことをした人がいたら叩きまくる人々、つまり、文を迫害した人々と同根なんじゃないでしょうか。







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