永田希という書評家(女性かと思ってたら男性だった)による『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)を読みました。


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印象的なフレーズ
まずは、本書を読んでとても印象に残ったフレーズを抜き書きしてみましょう。

「本はそれが閉じられている状態と、開かれている状態との『あいだ』にある。その性質は、それを読んでいる時間とそれを読んでいない時間との『あいだ』にある」

なるほど! これは気づかなかった。開かれて読まれている状態だけが本の性質だと思ってましたが、著者はそこを激しく撃ってきます。


「積読である以上は『いつか誰かに読まれたい』という書物の期待に十全に応えることはできない。書物の期待は積読をしている間は保留され続ける。繙かれていない書物の中の情報は、無意味でもなければ意味を特定された状態でもない。特定されていない意味のカオスこそ積読の正体です」

上の文章を難しく言い直したような感じですかね。積読こそが本の性質を保持し続ける、というような意味かな。この本は「常識」とされていることをうっちゃることが目的なので、意味を把握するのがとても難しかった。


「何かを語るために十分な知識の量と体系、要するに『語るための資格』を備えていると自負するのは、結局のところは権威主義的で鼻持ちならない高慢さの表れでもある」

これはツイッター界隈でもよく目にする言葉ですね。映画を語るには古典をちゃんと見てからにしろ、だの、おまえはこの程度の名作も見てないのか、だのといったマウンティング合戦が日常茶飯事的に行われています。
著者はこの権威主義的な考え方も激しく撃ってくる。そりゃま、そうですよね。語るために資格が必要ならいつまでたっても語れませんから。


「ある書物について語ろうとするときに人が躊躇するのは、その書物を自分が完全には読めていないという『うしろめたさ』と、それにもかかわらず自分がその書物の『位置づけ』に関与してしまうという無責任さが『やましい』からです」

書物を完全に読むことはできないと主張する著者ならではの言葉ですね。

以上、小難しいフレーズばかりを選んで愚にもつかない感想を述べましたが、私がこの本を読んで一番画が浮かんだのは、本書の主旨からは外れるかもしれませんが、以下のような場面です。

「この本棚にある本、全部読んだんですか?」
「いや、全部は読んでないんだけど」

というような会話が交わされるときの、すべてを読んでいないことを恥じる後者と、それを聞いて「それはもったいない!」と鬼の首を取ったかのような前者の表情ですね。


蔵書家の言い分
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これは他人様の家の書棚です。私はこんなに本をもってないし、そもそもこんなに部屋が広くない。

冊数もおよそ1000冊くらいでしょうか。本好きなら普通の量か少ないほうでしょう。増える一方だからどんどん売るんですが、売っても売ってもそれ以上のスピードで買うから増えていく。ちょいと前に新しい本棚を買いました。まだぎりぎりもう一個置けそうではありますが、いまの状態を限界と考えるべきかな。

それはさておき、1000冊も本をもっているというと「全部読んでるんですか?」って必ず訊かれるんですよね。

私は恥ずかし気に「いや、全部は」と答える。すると相手は「何割ぐらい読んでないんですか?」と間髪を入れずに訊いてくる。「3割、いや4割くらいかな」「ほとんど半分じゃないですか!」

と鬼の首を取ったかのような顔で突っ込んでくる。うっとうしいったらありゃしない。

以前、ツイッターで「あなたの本棚のあいうえお」「かきくけこ」という自分の本棚の本をさらすハッシュタグがあって、私も結構ツイートしましたが、あのときに思ったのは、

「本棚を一瞥しただけで、自分がこれまでどんな本を読んできたか、これからどんな本を読もうとしているかを一望できる」

ということでした。デジタル書籍には絶対にできない芸当だと。

そして大事なのは、「これまで読んできた本」と「これから読む本」が同居しているということです。

過去の自分と未来の自分の邂逅。

ここにこそ蔵書家が図らずもみな積読してしまう理由があると思う。

私の統計によると、積読状態の本棚を見て鬼の首を取ったかのような顔になる輩ほど決まって「どんな本を読んでいいのかわからない」っていうんですよ。

巷で話題になってるとか、タイトルに惹かれたとか、装丁がきれいとか、何でもいいから気になったものから読んでみたらいい、とアドバイスするんですが、ごにょごにょ言うばかりで結局何も読まない。何も読まないくせに「僕も今年こそは読書に勤しもうと思ってるんですよ」とかいう。

何だそれは。って感じですが、おそらく彼/彼女のような人は、「これから読む本」にしか興味がないのだと思います。現在から未来にかけての自分にしか興味がない。現在の自分の土台である過去の自分には興味を示さない。

読書、いや積読というのは、「過去の自分と未来の自分の邂逅」にこそ精髄があります。

それはつまり「歴史」ということです。


積読こそが完全な読書術である
永田 希
イースト・プレス
2020-04-17



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