先日は親への恨み言のような日記を書いてしまいました。(⇒忘れていた心の傷が口を開けてしまった件

でも、いまの気持ちはもう違います。

父親からの暴言や理不尽な物言いは幼少の頃からですが、正直言っていまぐらい年齢を重ねると小学校くらいまでのことはあまり憶えていません。

でもはっきり憶えているのは中学3年のとき、次兄が、先輩からおまえの電話の出方がおかしい、おまえの弟はこんな口の利き方をしたと怒られた、と文句を言ってきて、まったく身におぼえがなかったから必死で否定しました。

しかし父親も母親も次兄の味方をして「なぜ嘘をつくのか」「何でそうやっていつもごまかすのか」と難詰されました。

私は何を言っても無駄だと「ごめんなさい」と謝りました。他にも同様な場面はもっとたくさんあったはず。でもまだ10代半ばにも関わらず私は両親からの誹謗中傷に耐えられず、嘘をついていたと認めてしまったのです。

そういうとき、もっとちゃんと反抗すべきだった。

反抗したら親父の怒りに油を注ぐ結果にはなっただろうけど(実際、小学校までの私は反抗してもっと怒られていたはず)それでもやっぱり反抗すべきだった。

高校に上がってからは別のことが原因で殴り合いの喧嘩を演じたこともあるけれど、なじられることに耐えられず、あきらめて抗弁しないという精神構造は中学時代にできあがってしまっていました。

反抗して逆上するような親なら、そんな家はとっくの昔に出るべきでした。それを親への反感は人一倍もっているはずなのに、経済的に甘えてばかりでほんの数年前まで実家にいたままだった。

それが何よりの間違い。

生きるということは後悔すること。

映画『レイジング・ブル』のテーマでもありますが、いまの私にはとても切実な言葉です。

考えてみれば、いま書いている小説はまさにそういうテーマなんですよね。そういうテーマで書こうとしたわけじゃない。三島由紀夫が言っているように、作家はテーマなど考えずに書きます。そして最後の句点を打った瞬間に、あぁ俺はこういうことが言いたかったのか、と初めてテーマを知る。

今回の小説は最後まで書いてないどころか、まだ半分にも到達していないはずですが、ラストまでの道筋はすでにあらかた固めています。

もし自分が一読者としてその物語を読んだら、「生きるということは後悔することだ」というテーマを感じ取るでしょう。

無意識に思っていることが、物語の形にすると出てしまうんですね。面白い。これだから創作はやめられない。

あまりいい子ちゃんを演じるのもどうか、もっと親を恨んでもいいんじゃないかとも思うけれど、やはり40代も後半になって親を恨むのはよろしくない。

山積した後悔を糧にして、また今日から一歩一歩生きていくしかありません。



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