松竹ヌーベルバーグを牽引した吉田喜重監督による1986年作品『人間の約束』。


『人間の約束』(1986、日本)
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脚本:吉田喜重&宮内婦貴子
監督:吉田喜重
出演:河原崎長一郎、三國連太郎、村瀬幸子、佐藤オリエ、若山富三郎、佐藤浩市


吉田喜重といえば、何といっても『秋津温泉』や、デビュー作の『ろくでなし』や『嵐を呼ぶ十八人』『戒厳令』、はたまた私はまったく好きではないが『エロス+虐殺』などを代表作に挙げる人が大方でしょう。

が、私はこの『人間の約束』こそ吉田喜重の最高傑作だと信じて疑いません。

その理由は、この記事のタイトルにもしている「異様なクライマックス」にあります。

その前にあらすじをご紹介しましょう。(以下ネタバレあります)


物語
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ある郊外の一軒家で痴呆症の老婆・村瀬幸子の死体が発見される。首に絞めた痕があることから殺人事件として捜査され、夫の三國連太郎が「自分がやった」と自首する。しかし三國もまた呆けており、若山富三郎と佐藤浩市をはじめとする刑事たちは困惑する。ほんとにこのボケ老人がやったのか、と。

そこから物語は過去にさかのぼり、いったい誰が村瀬幸子を殺したかが明らかとなります。

息子の河原崎長一郎は不倫をしており、妻の佐藤オリエは村瀬の世話と愛人への嫉妬から精神が不安定となり、風呂場で沈んだ村瀬を放置してしまい「殺そうとしてしまった」と告白する。

が、本当に殺したのは河原崎長一郎であった。村瀬が愛用していた水鏡の水に母親の頭を軽く押し付けただけだが、そのとき喉に入った水を飲みこんだことが死因となったことが判明する。警察署で三國と対峙した河原崎は「お父さんは僕がやったのを見ていたじゃないですか」と言うが、三國は「“あいつ”がやった」と言うばかり。

明日からあなたを事情聴取しますと言われた河原崎は、佐藤オリエの反対を押し切って自首して終幕。

うーん、やっぱり「映画のあらすじ」ってどう書いてもつまらないですね。あらすじに映画の本質は決して浮かび上がってこない。だから高名な脚本家は「絶対にあらすじを書くな。考えてもいかん」と言っていたのか。

あらすじではなく「脚本」あるいは「プロット」という観点から見ると非常に構成が堅牢で見事なまでに構成されており、プロの仕事とはこういうのを言うんだろうなぁと激しく嫉妬してしまいます。

村瀬幸子の水鏡や、三國が病院で唖然と自分を見つめる鏡、河原崎長一郎と佐藤オリエが食事をするレストランの窓を鏡代わりにした描写など、鏡を介した視線のドラマが印象的で、後年、『鏡の女たち』を撮る吉田喜重監督の面目躍如といえる巧みな映像演出がそこかしこにあって飽きることがありません。が、私がこの映画を見ていつも興奮するのはそういう巧みな演出ではなく、ほとんど蛮勇に等しい映像演出です。

それが「お父さん、あなたは見ていたじゃないですか」と河原崎が三國に言って父子が対峙するクライマックスです。


イマジナリーライン
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図のように、対峙する二人の人間をカットバックする場合、二人を結ぶ直線がイマジナリーラインです。いったんAの位置にカメラを置いたらもう片方の人物を取る場合はBの位置からしかありえません。イマジナリーラインを越えてCから撮った映像とカットバックしてしまうと、二人の人間が向かい合っているように見えない。つまり、視線が合わない。(これが3人、4人と人数が増えるとイマジナリーラインは直線ではなくものすごくややこしくなります)

小津安二郎はイマジナリーラインを無視していたとよく言われますが、あれはほぼ真正面からのショットなのであまり気にならない。

でもこの『人間の約束』のクライマックスにおけるイマジナリーラインを無視するやり方はほとんど無謀ともいえるものです。

かつて現場で働いていたとき、カメラマンから直接こんなことを聞きました。

「プロのカメラマンは人物が3人になっても4人になっても顔の向きがどっちを向いていようと、役者の並びを見ただけで一瞬でイマジナリーラインがわかる。そしていったんカメラを置いたら、イマジナリーラインを越えてカメラを置こうとしても体が動かない。無意識が拒否する。平気でイマジナリーラインを越えられるカメラマンはカメラマンじゃないよ」

だからこそ、この『人間の約束』は異様なのです。変てこりんなのです。

河原崎長一郎と三國連太郎が対峙するクライマックスは二人がまっすぐ向かい合っているので、図と同じように一番簡単な、相対する役者を直線で結ぶイマジナリーラインが引かれます。

なのに、大胆にも吉田喜重はイマジナリーラインをどんどん越えます。ど素人でも「監督、そっちにカメラは置けません」と言いたくなるような越え方です。視線がぜんぜん合っていない。合わなすぎて冷や汗が出るほど。

三國はもう呆けており、また息子を守ろうとしているのか、河原崎が「お父さん、あなたは見ていたじゃないですか」と言っても「あいつがやったんだ。あいつが!」と話が噛み合わない。きっと、噛み合わない会話の映像的比喩として噛み合わない視線を描出しているのでしょう。

ヒッチコックの『めまい』は「横顔のドラマ」でしたが、『人間の約束』は「視線のドラマ」といっていいでしょう。


小津と吉田喜重
かつて吉田喜重監督がいまわの際の小津安二郎から「映画はドラマだ。アクシデントじゃない」と言われたことを考えると感慨深いものがあります。

イマジナリーラインを越えるのは普通は「アクシデント」でしょう。でも、それを狙いをもった「ドラマ」としてうまく活用した吉田喜重。小津への敬慕と「してやったり!」な快感の両方が伝わってきます。


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もう90歳近いですが、新作を見ること叶わないのでしょうか。

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