国内外で注目を集める村田沙耶香さんの中編小説集『変半身(かわりみ)』を読みました。

「ニンゲンを脱ぎ捨てろ」というキャッチコピーにあるように、この小説では、私たちは「ニンゲン」という奇祭をやっている、実はぜんぜん別の「ポーポー」という生き物なのだ、という内容です。
地球(ほんとの地球は丸い星ではなくところどころに島があるどこまでも続く水たまりという設定)の外からやってきたポーポーが、新しい島で繁殖し始める前に、そこで生きていく安全を祈るため祭りを行っていた。それが「ニンゲン」という架空の生き物を演じるという奇祭。それがこの世の正体なのだと。
しかし本当にそうでしょうか?
一人称の罠
二年前に刊行された傑作『地球星人』について、私はこんな感想↓を書きました。
『地球星人』感想(あのラストをどう解釈するか)
『地球星人』のミソは一人称で書かれていることにある、という主張でした。
この『変半身(かわりみ)も一人称で書かれています。しかしながら如何様にも解釈が可能な『地球星人』とは違い、この作品では主人公・陸が実際に幼馴染の高木君が卵を産むところを目撃し、その卵から、上半身がイルカで下半身が人間のような本物のポーポーが孵化する瞬間を目の当たりにします。
そしてラジオもスマホもまったく動かない。これまで自分たちが信じていた地球の歴史、人類の歴史はすべて奇祭「ニンゲン」をまことしやかにするためだった真っ赤なウソだった!
そして陸自身も「自分が孵化している」のを感じます。ポーポーに変身しかけるところで物語は幕を閉じます。
しかし本当にそうなんでしょうか?
村田沙耶香の「宗教」
何の情報ももたない陸は、奇祭「ニンゲン」が終わったという宣言を聞く直前、幼馴染の花蓮にこんなことを言います。
「みんな、自分に都合のいい嘘を信じるんだ。人間ってそういう仕組みなのかな」
花蓮は答えます。
「そうかもね。新しい真実を信じるとき、人間の頭はクラッシュする。その瞬間だけが本当に『無』になれるときなのよ。次の瞬間には新しい信仰が始まってしまうんだから」
人間は信仰=宗教から逃れられない生き物だというのは村田沙耶香さんの作品に一貫するテーマですよね。みんな「普通教」に囚われているだけだ、と。
『コンビニ人間』では結婚するのが普通、36歳でコンビニでバイトなんておかしいという「普通教」への異議申し立てが主題でしたが、その主人公ですらコンビニという神を信仰しているわけで、どこまで行っても人間は宗教から逃れられないというのは、作者の主張というより、まったく例外のない、この世の数少ない真理のひとつでしょう。
だから、我々は「ニンゲン」という奇祭を演じるポーポーという生き物だというのも、また「信仰」のひとつでしかないというのが私の見方です。
だって、人間は宗教から逃れられないのが真理ということは、この世のもうひとつ奥にある唯一絶対不変の真理には到達できないということです。その前に立ちふさがって別のことを信じ込ませてる「神」という存在がいるのですから。その神を信じているのですから。
世界五分前仮説
哲学者バートランド・ラッセルが提唱した壮大な思考実験に「世界五分前仮説」というのがあります。
この世はたった五分前に生成された、何百年も何億年も前から存在しているように感じるのは、そういう歴史があると信じているからだ、というもの。
この仮説は否定することがかなり困難なようです。
『変半身(かわりみ)』はそれを哲学ではなく文学として提示しました。「自分たちは地球人で、地球には50億年の歴史があり、丸い球体の星で地動説が正しい」というのが千年前に作られた神話。その千年を五分と考えれば五分前仮説となる。
千年が五分だなんておかしい? それもまた数学や度量衡という宗教を信仰しているから出てくる疑問であって、この世の奥にある唯一絶対の真理からすれば少しもおかしくない可能性は充分あります。
そして、その五分前仮説は否定することが難しい。だから自分たちは実はポーポーであるという「真理」をみんなで信仰しようということになった、というのがこの小説の本当の結末でしょう。
陸はポーポーになったのではなく、ポーポー教を信じるようになっただけにすぎません。ポーポー教もいずれ新たな五分前仮説となるのです。
第2章の巧妙さ
そう解釈できるよううまく描写されているのが第2章の陸の実生活です。
どうも夫は詐欺集団の一人らしく、愛人を作って一週間に五回はセックスをするノルマが課されているとか、他人を騙すために何かを演じる人なんですね。妻の陸もその片棒を担がされている。
現実にはこんな人たちは存在しないでしょうが、でもこれは現代ニッポンの巧妙なカリカチュアでしょう。
みんな何かを演じている。演じることによって詐取し、また詐取されている。
陸はおそらくそのような日常がいやになったのでしょう。それで幼いときに村で「モドリ」という秘祭が行われ、そこから逃げ出した記憶を利用して「自分たちはニンゲンという奇祭を演じるポーポーだったのだ」という新しい現実を信じることにした。
榊というプロデューサーが村に方言がないと観光客が来ないから語尾に「がちゃ」をつけて喋るように、というところから世界がおかしくなります。
いや、一人称で書かれているのだから、世界そのものがおかしくなったのではなく、陸の主観で捉えた世界がおかしくなっている、ということ。つまり、世界を見る陸自身がおかしくなっている。
「無」になる瞬間
これが三人称で書かれていたらすべて「客観的事実」として信じるほかありませんが、一人称だから陸の妄想であることを否定できません。現実の世界でおかしくなった自分に整合性をもたせようとしたのでしょう。
でも、主人公の妄想にすぎなかった、つまり「夢オチ」だからつまらないというのは当たらないと思います。
「宗教」である以上、神への信仰告白である以上、一人称で書かれねばならず、一人称で書かれる以上はすべては主人公の妄想だという疑いから逃れられない。
花蓮のセリフ「新しい真実を信じるとき、人間の頭はクラッシュする。その瞬間だけが本当に『無』になれるときなのよ」にあるように、自分が孵化するのを感じるクライマックスで陸は「無」になった。
そして次の瞬間には「自分はポーポーである」という別の宗教を信仰し始めるのです。
私たちにもいずれそういう瞬間が訪れるのかもしれません。まったく新しい自分と出逢う瞬間。まったく新しい世界に溶けこんで行く瞬間。
それこそ「オーガズム」と呼ぶべきものなのかもしれませんね。
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地球(ほんとの地球は丸い星ではなくところどころに島があるどこまでも続く水たまりという設定)の外からやってきたポーポーが、新しい島で繁殖し始める前に、そこで生きていく安全を祈るため祭りを行っていた。それが「ニンゲン」という架空の生き物を演じるという奇祭。それがこの世の正体なのだと。
しかし本当にそうでしょうか?
一人称の罠
二年前に刊行された傑作『地球星人』について、私はこんな感想↓を書きました。
『地球星人』感想(あのラストをどう解釈するか)
『地球星人』のミソは一人称で書かれていることにある、という主張でした。
この『変半身(かわりみ)も一人称で書かれています。しかしながら如何様にも解釈が可能な『地球星人』とは違い、この作品では主人公・陸が実際に幼馴染の高木君が卵を産むところを目撃し、その卵から、上半身がイルカで下半身が人間のような本物のポーポーが孵化する瞬間を目の当たりにします。
そしてラジオもスマホもまったく動かない。これまで自分たちが信じていた地球の歴史、人類の歴史はすべて奇祭「ニンゲン」をまことしやかにするためだった真っ赤なウソだった!
そして陸自身も「自分が孵化している」のを感じます。ポーポーに変身しかけるところで物語は幕を閉じます。
しかし本当にそうなんでしょうか?
村田沙耶香の「宗教」
何の情報ももたない陸は、奇祭「ニンゲン」が終わったという宣言を聞く直前、幼馴染の花蓮にこんなことを言います。
「みんな、自分に都合のいい嘘を信じるんだ。人間ってそういう仕組みなのかな」
花蓮は答えます。
「そうかもね。新しい真実を信じるとき、人間の頭はクラッシュする。その瞬間だけが本当に『無』になれるときなのよ。次の瞬間には新しい信仰が始まってしまうんだから」
人間は信仰=宗教から逃れられない生き物だというのは村田沙耶香さんの作品に一貫するテーマですよね。みんな「普通教」に囚われているだけだ、と。
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だから、我々は「ニンゲン」という奇祭を演じるポーポーという生き物だというのも、また「信仰」のひとつでしかないというのが私の見方です。
だって、人間は宗教から逃れられないのが真理ということは、この世のもうひとつ奥にある唯一絶対不変の真理には到達できないということです。その前に立ちふさがって別のことを信じ込ませてる「神」という存在がいるのですから。その神を信じているのですから。
世界五分前仮説
哲学者バートランド・ラッセルが提唱した壮大な思考実験に「世界五分前仮説」というのがあります。
この世はたった五分前に生成された、何百年も何億年も前から存在しているように感じるのは、そういう歴史があると信じているからだ、というもの。
この仮説は否定することがかなり困難なようです。
『変半身(かわりみ)』はそれを哲学ではなく文学として提示しました。「自分たちは地球人で、地球には50億年の歴史があり、丸い球体の星で地動説が正しい」というのが千年前に作られた神話。その千年を五分と考えれば五分前仮説となる。
千年が五分だなんておかしい? それもまた数学や度量衡という宗教を信仰しているから出てくる疑問であって、この世の奥にある唯一絶対の真理からすれば少しもおかしくない可能性は充分あります。
そして、その五分前仮説は否定することが難しい。だから自分たちは実はポーポーであるという「真理」をみんなで信仰しようということになった、というのがこの小説の本当の結末でしょう。
陸はポーポーになったのではなく、ポーポー教を信じるようになっただけにすぎません。ポーポー教もいずれ新たな五分前仮説となるのです。
第2章の巧妙さ
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どうも夫は詐欺集団の一人らしく、愛人を作って一週間に五回はセックスをするノルマが課されているとか、他人を騙すために何かを演じる人なんですね。妻の陸もその片棒を担がされている。
現実にはこんな人たちは存在しないでしょうが、でもこれは現代ニッポンの巧妙なカリカチュアでしょう。
みんな何かを演じている。演じることによって詐取し、また詐取されている。
陸はおそらくそのような日常がいやになったのでしょう。それで幼いときに村で「モドリ」という秘祭が行われ、そこから逃げ出した記憶を利用して「自分たちはニンゲンという奇祭を演じるポーポーだったのだ」という新しい現実を信じることにした。
榊というプロデューサーが村に方言がないと観光客が来ないから語尾に「がちゃ」をつけて喋るように、というところから世界がおかしくなります。
いや、一人称で書かれているのだから、世界そのものがおかしくなったのではなく、陸の主観で捉えた世界がおかしくなっている、ということ。つまり、世界を見る陸自身がおかしくなっている。
「無」になる瞬間
これが三人称で書かれていたらすべて「客観的事実」として信じるほかありませんが、一人称だから陸の妄想であることを否定できません。現実の世界でおかしくなった自分に整合性をもたせようとしたのでしょう。
でも、主人公の妄想にすぎなかった、つまり「夢オチ」だからつまらないというのは当たらないと思います。
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花蓮のセリフ「新しい真実を信じるとき、人間の頭はクラッシュする。その瞬間だけが本当に『無』になれるときなのよ」にあるように、自分が孵化するのを感じるクライマックスで陸は「無」になった。
そして次の瞬間には「自分はポーポーである」という別の宗教を信仰し始めるのです。
私たちにもいずれそういう瞬間が訪れるのかもしれません。まったく新しい自分と出逢う瞬間。まったく新しい世界に溶けこんで行く瞬間。
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