私はカラー映画よりモノクロ映画が好きなんですが、その理由がよくわかりませんでした。

先日、カルト傑作と誉れ高い佐藤肇監督の『散歩する霊柩車』を見たんですが、そのときにアッ! と思ったんですよね。もしかしたら……と。


なぜカラーで撮るのか
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日本初のカラー映画は木下恵介監督の『カルメン故郷に帰る』ですが、この頃のカラー映画は「カラーで撮ること」への異常なまでのこだわりがありました。それはヒッチコックや小津、黒澤のような、長らくカラーで撮ることを忌避し続けたフィルムメイカーたちのカラー作品にも感じることです。

もう10年前でしょうか。「映画芸術」に連載していた宮台真司が、

「実写を撮る監督に、まずアニメを監督するのを義務として課してはどうか」

という提言をしていました。アニメは画面の隅々までどういう色にしてどこに影を落として、ということを徹底して考え抜かねばならないから、と。実写だとどうしても現実がカラーなので何も考えずに撮ってもカラーになってしまう。「考えぬいたカラー」ヒッチコックや小津のような美しすぎるほど美しいカラー映画を作るためにはアニメを1本は作ったほうがいいというなかなか建設的な意見でした。

そうです。現実がカラーだから映画もカラーでないといけないなんて決まりはない。いまは「なぜ白黒で撮るのか」という理由は必須でしょうが、「なぜこの映画をカラーで撮るのか」と突きつめて考えて撮っている監督って数えるほどもいないと思う。


言葉が色覚を決定する⁉
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虹が七色とは誰でも知っていますが、って、ええ? 本当? 

あくまで日本語では、ですよね。日本語には虹の色を表す言葉が7つあるということ。何語か忘れましたが、虹が八色の言語もあれば、二色しかない言語もあるそうな。八色の言語を母語とする人が虹を見たら八色に見えるだろうし、日本人には七色に見えるし、二色しか見えない人もいる。

内田樹先生によると、フランス語には「腰」を意味する単語はないそうです。「背中の下あたり」とか「お尻の上のほう」という言い方しかない。だから日本人のように「腰を入れる」という身体運用の仕方をフランス人はもともともっていない。

もともともっていないから「腰を入れるとは何ぞや」と勉強して意識的に腰を入れる動作を獲得するからかの国は柔道大国なのではないかとひそかに思っているんですが、それはさておき……

ということはですよ、同じカラー映画を見ても、その人がどういう言語を話すかによって見え方が違うということになりますよね。


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この『めまい』のワンシーンを見ても、人によって見え方が異なる。私は日本人ですが、虹の色が七色に見えたことがないから(せいぜい五色くらい)同じ言語でも見え方は異なるものなのかもしれません」。


一方モノクロは……
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私が史上最も美しいモノクロ映像を擁する映画と思うのは何といっても『第三の男』! ビデオで見たときはさしていいとは思わなかったんですが、劇場で見て戦慄しました。白と黒の、光と影の芸術を初めて体感した気分でした。(テレビ画面で見る『第三の男』は別の映画です。スクリーンに映したものこそ本物)

それはさておき、「白と黒の~」と言いましたけど、正確には「すべてグレー」ですよね。濃淡があるだけ。だからたぶん、母語が何語であろうと見え方は同じはずなんです。

「映画が白黒から始まってよかった」とは蓮實重彦の言葉ですが、激しく同感。白黒だと世界中の人に同じように見えるからなどといったナイーブな感性を蓮實はもっていないでしょうし、そんなことを言ってるわけでもないんですけど、いまの私にはモノクロ映画が世界平和の象徴のように思えてきた。


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でも、虹が七色に見えるのは世界的に見てもかなり多色らしく、もしかして日本のアニメーションが世界的に人気が高いのは「色づかい」が文字通り「多彩」だからじゃないか。(逆に虹が八色に見える民族にとっては日本のアニメはたいして多彩じゃないのかも)

われわれ日本人が見るアニメと、外国人が見る同じアニメの色はおそらく違うんでしょう。違うけれど、モノクロ映画のように濃淡の違いはあるはず。もとが多彩な色づかいで描かれているから、我々にとっては「色の違い」に感じられるものが「濃淡の違い」という形で認識されているはず。

濃淡といえばモノクロじゃないですか。

何が言いたいかというと、私たちが映画や絵画やアニメを見るとき、根底にあるのは色覚ではないということです。


あるなぞなぞ
昔、こんななぞなぞがありました。

「赤が緑に見えて、緑が赤に見える人が夕焼けの絵を描いたらどんな絵になるか?」

たいていの人は「緑色の夕焼け」と答える。違うんですよね。普通の真っ赤な夕焼けの絵になる。なぜか。

赤が緑に見えるわけだから、その人にとっての夕焼けは緑色です。だから緑の絵の具を出す。でも、その人にとっての緑は、我々正常な色覚をもった人間にとっての赤です。だから真っ赤な夕焼けが描ける。

問題は「真っ赤」や「薄い赤」といった「濃淡」を表現できるかどうか。こればっかりは色覚が正常か異常かに関係なく「才能」の問題。


モノクロは才能/感性の問題
そうです。白黒映画ははっきり「才能」の問題なのです。

小津はカラーを撮らない理由を聞かれて「いまの技術では私の望む赤が表現できない」といったそうな。

後年、真っ赤が印象的な『浮草』『彼岸花』などを撮るから、そのときは望んだとおりの赤が実現できたんでしょうが、それも「濃淡」の問題ですよね。赤い色そのものはカラーフィルムを使えば撮れるんだから。

というわけで、私がカラー映画より白黒映画を好む理由、そして同じカラーでも50年代くらいの「カラーの濃淡」にこだわった映画が好きな理由がわかりました。

カラーの濃淡には才能、いや正確にいえば「感性」が問われる。そしてモノクロの場合、ほぼ直截的に才能/感性の問題となる。

蓮實重彦は「映画は努力でどうなるものでもない。才能の問題だ」といっていましたが、なるほど、稀代の批評家が「映画が白黒から始まってよかった」といった理由もどうやら同じことのようです。



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