横尾忠則現代美術館で開催中の「自我自損展」に行ってきました。

作者である横尾忠則さん自身がキュレーター(学芸員)を務めるという珍しい展覧会。
タイトルの「自我自損」とは、エゴに固執すると損をするという意味の造語で、自らの旧作に容赦なく手を加えて新たな作品へと変貌させたり、同一人物による作品とは思えないほど大胆にスタイルを変化させる、横尾さんの絶えざる自己否定と一貫したテーマである「自我からの解放」という意味がこめられているそうです。
「エゴに固執すると損をする」というのはまさしくその通りですね。
以前、映画の専門学校に通っていたときはエゴに固執する人間ばかりでした。「自分はこういう映画を作りたい」「自分はこうしたい」ということに固執するばかりで周りの意見を聞かない。それって「自分は絶対的に正しい」ということが前提にあるのでやめたほうがいい、といくら諭してもダメでした。
つまらなかった映画を二度と見ないと堂々と宣言する人も多かった。それも「この映画はつまらないという自分の判断が正しい」ということを前提にしているのでやめたほうがいい。そのときの体調やものの見方が合わなかっただけかもしれない。もう一度見たらすごく面白いかもしれない。そういう可能性を最初から放棄している。
「君子豹変す」という言葉があるように、周りの意見を聞き入れて自分の意見や考え方を変えることをおそれてはいけない。生きている以上はどんどん変わるのが普通。
その学校に行っていたときは「『タクシードライバー』が一番好きな映画」と言ってたんですが、歳をとるほどにそれほど好きではなくなりました(つい最近『ジョーカー』を見たのをきっかけに再見しましたが、やはりそんなにいい映画とは思えません)。まだSNSなんかなかったころ、ヤフーの掲示板で「あなたのオールタイムベストテンは?」という質問に『タクシードライバー』を入れなかったら「なぜ入ってないのか」と訊かれまして、好みなんか変わっていくのが本当だといってもキョトンとした顔をされました。「一貫した自分」なんて幻想にすぎないのに。

今回の展示で私が一番心打たれたのはこの『ミケランジェロと北斎の因果関係』というやつなんですが、はっきり申し上げて、美術展なのに絵画よりも横尾さんの言葉のほうがよっぽど印象的でした。
2階から3階へ移ると、入り口に「ゲスト・キュレーター:横尾忠則のQ&A」というのが掲げてありました。
――今回のコンセプトは何ですか?
「コンセプトはない、というのがコンセプトです。作品はすべてその日の気分で選びました。別の日に選んだらまったく別の作品を選んだでしょう。私にとって気分や生理というのはとても重要なものです」
素晴らしい! 気分というのはとても大事。シナリオでも「初稿はハートで書け」って言いますもんね。しっくり来るか来ないか。「しっくり」というのはクローネンバーグふうに言えば「内臓感覚」ですね。
腑に落ちる、っていうじゃないですか。「腑」というのは五臓六腑の腑で内臓のこと。内臓的にしっくり来るかどうかが一番大事。頭で考えてはいけない。「リライトには頭を使え」というように、ハートや内臓でしっくりこなかったものだけを頭を使って補正していく。
「通常の展覧会では、キュレーター選びが私のキュレーションです。そこに学芸員の批評が表れる。私はそういう批評を見たい。要は人のふんどしで相撲を取っているわけですが、相撲の取り方に口出しはしません」
一流の人ならではの言葉ですね。他人がどういう選び方、配置の仕方をするかを大いに楽しむ。批評への批評はしない。
「自分の作品の解説はしたくありません」
そりゃそうでしょう。
幼少の頃に見た、教育テレビでやっていた美術番組を思い出しました。
ダリを中心にいろんな抽象画が紹介されて、ある日本人の抽象画家が「この絵にはこういう意味がこめられているんじゃないか」「この絵のこの部分はこういうことなんじゃないか」と解説していくんですが、最後にその人自身が描いた抽象画を解説する場があって、
「自分の絵を自分で解説するというのは好きではありません。なぜなら、自分で解説してしまったら作品がそこで終わってしまうからです」
別に作者の意図通りに見なくちゃいけないなんてルールはないけれど、作者の意図だけが唯一の正解でその通りに見なくちゃいけないと勘違いしてる人はとても多いですからね。
その人は、ある程度までは解説してましたけど、「これ以上は私自身にもわかりません」と言っていたのが印象的でした。一緒に見ていた父は「それがホンマやろうなぁ」と言ってましたが、確かにそうなんでしょう。とても正直。
横尾さんもたぶん、自分の絵を十全には解説できないでしょう。そもそも解説なんていらない。邪魔になるだけ。
「見に来た人には『作品と対話してください』とだけ言いたい」
その通り。今回の展示ではあまりいませんでしたが、もっと大きな「フェルメール展」とか「ゴッホ展」「プラド美術館展」なんかに行くと、作品そのものより解説を読んでばかりの人って多いですよね。いったい何をしに来たんだか。
映画も同じ。見たあとに他人の感想ばかり読んでいる人は「映画との対話」ができていないと思います。
私はそれをバロメーターにしています。見たあとに他人の言葉を読みたくなったら映画との対話ができていなかった、何も読まずに自分の感想をまとめられたら対話ができていた証拠だと、ね。
「横尾さんにとって展覧会とは何ですか?」という質問に対し「僕のパンドラの匣の蓋を開ける行為です」という言葉もよかったなぁ。


作者である横尾忠則さん自身がキュレーター(学芸員)を務めるという珍しい展覧会。
タイトルの「自我自損」とは、エゴに固執すると損をするという意味の造語で、自らの旧作に容赦なく手を加えて新たな作品へと変貌させたり、同一人物による作品とは思えないほど大胆にスタイルを変化させる、横尾さんの絶えざる自己否定と一貫したテーマである「自我からの解放」という意味がこめられているそうです。
「エゴに固執すると損をする」というのはまさしくその通りですね。
以前、映画の専門学校に通っていたときはエゴに固執する人間ばかりでした。「自分はこういう映画を作りたい」「自分はこうしたい」ということに固執するばかりで周りの意見を聞かない。それって「自分は絶対的に正しい」ということが前提にあるのでやめたほうがいい、といくら諭してもダメでした。
つまらなかった映画を二度と見ないと堂々と宣言する人も多かった。それも「この映画はつまらないという自分の判断が正しい」ということを前提にしているのでやめたほうがいい。そのときの体調やものの見方が合わなかっただけかもしれない。もう一度見たらすごく面白いかもしれない。そういう可能性を最初から放棄している。
「君子豹変す」という言葉があるように、周りの意見を聞き入れて自分の意見や考え方を変えることをおそれてはいけない。生きている以上はどんどん変わるのが普通。
その学校に行っていたときは「『タクシードライバー』が一番好きな映画」と言ってたんですが、歳をとるほどにそれほど好きではなくなりました(つい最近『ジョーカー』を見たのをきっかけに再見しましたが、やはりそんなにいい映画とは思えません)。まだSNSなんかなかったころ、ヤフーの掲示板で「あなたのオールタイムベストテンは?」という質問に『タクシードライバー』を入れなかったら「なぜ入ってないのか」と訊かれまして、好みなんか変わっていくのが本当だといってもキョトンとした顔をされました。「一貫した自分」なんて幻想にすぎないのに。

今回の展示で私が一番心打たれたのはこの『ミケランジェロと北斎の因果関係』というやつなんですが、はっきり申し上げて、美術展なのに絵画よりも横尾さんの言葉のほうがよっぽど印象的でした。
2階から3階へ移ると、入り口に「ゲスト・キュレーター:横尾忠則のQ&A」というのが掲げてありました。
――今回のコンセプトは何ですか?
「コンセプトはない、というのがコンセプトです。作品はすべてその日の気分で選びました。別の日に選んだらまったく別の作品を選んだでしょう。私にとって気分や生理というのはとても重要なものです」
素晴らしい! 気分というのはとても大事。シナリオでも「初稿はハートで書け」って言いますもんね。しっくり来るか来ないか。「しっくり」というのはクローネンバーグふうに言えば「内臓感覚」ですね。
腑に落ちる、っていうじゃないですか。「腑」というのは五臓六腑の腑で内臓のこと。内臓的にしっくり来るかどうかが一番大事。頭で考えてはいけない。「リライトには頭を使え」というように、ハートや内臓でしっくりこなかったものだけを頭を使って補正していく。
「通常の展覧会では、キュレーター選びが私のキュレーションです。そこに学芸員の批評が表れる。私はそういう批評を見たい。要は人のふんどしで相撲を取っているわけですが、相撲の取り方に口出しはしません」
一流の人ならではの言葉ですね。他人がどういう選び方、配置の仕方をするかを大いに楽しむ。批評への批評はしない。
「自分の作品の解説はしたくありません」
そりゃそうでしょう。
幼少の頃に見た、教育テレビでやっていた美術番組を思い出しました。
ダリを中心にいろんな抽象画が紹介されて、ある日本人の抽象画家が「この絵にはこういう意味がこめられているんじゃないか」「この絵のこの部分はこういうことなんじゃないか」と解説していくんですが、最後にその人自身が描いた抽象画を解説する場があって、
「自分の絵を自分で解説するというのは好きではありません。なぜなら、自分で解説してしまったら作品がそこで終わってしまうからです」
別に作者の意図通りに見なくちゃいけないなんてルールはないけれど、作者の意図だけが唯一の正解でその通りに見なくちゃいけないと勘違いしてる人はとても多いですからね。
その人は、ある程度までは解説してましたけど、「これ以上は私自身にもわかりません」と言っていたのが印象的でした。一緒に見ていた父は「それがホンマやろうなぁ」と言ってましたが、確かにそうなんでしょう。とても正直。
横尾さんもたぶん、自分の絵を十全には解説できないでしょう。そもそも解説なんていらない。邪魔になるだけ。
「見に来た人には『作品と対話してください』とだけ言いたい」
その通り。今回の展示ではあまりいませんでしたが、もっと大きな「フェルメール展」とか「ゴッホ展」「プラド美術館展」なんかに行くと、作品そのものより解説を読んでばかりの人って多いですよね。いったい何をしに来たんだか。
映画も同じ。見たあとに他人の感想ばかり読んでいる人は「映画との対話」ができていないと思います。
私はそれをバロメーターにしています。見たあとに他人の言葉を読みたくなったら映画との対話ができていなかった、何も読まずに自分の感想をまとめられたら対話ができていた証拠だと、ね。
「横尾さんにとって展覧会とは何ですか?」という質問に対し「僕のパンドラの匣の蓋を開ける行為です」という言葉もよかったなぁ。

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