梅崎春生の『怠惰の美徳』について先日、ちょっとだけ書きましたが、あのときは後半の短編小説は読んでなかったんですよね。最後まで読んだので、今回はその感想です。
私小説?
前半のエッセイでいくつか真面目な文学論が載っていて、著者は「私小説は日本文学の悪しき伝統だ」みたいな主張をしているんですが、七つの短編小説はすべて主人公が著者自身を思わせる人物で、しかもその人物の一人称で語られるから、これって私小説じゃないの? それとも私小説に似せたまったくの創作なのかしらん?
と思いながら読み進めると、ひとつだけ「これは絶対創作だろう!」と思えるものがありました。
「百円紙幣」
と題された20ページほどの作品がそれ。
この作品の主人公は、酔うと金を隠す癖がある。日記帳を開いたら十円紙幣が挟まっていて「大いなる拾い物をした」と喜ぶ友人の姿を見て、自分にも同じ癖がついたと。素面の自分に向けたプレゼントとして、酔ったら五円紙幣や十円紙幣や硬貨などもときどきいろんなところへ隠す。素面の自分はどこにいくら挟まっているか探すのが楽しい。
私は最初、私小説というかほとんどエッセイと思って読んでいたので、変な癖をもっていたんだなぁ、一流の文士になるためにはやはりそれぐらいの変態さが必要なのだろう、と思ってしまったけれど、結末に至って「これは創作なり!」と強く思ったわけです。
物語は後半に入ってサスペンスを増していきます。ボーナスが入ったときの百円紙幣が一枚足りないことに気づくも、酔った自分がどこかへ隠したか素面の自分にはわからない。わからないまま引っ越すことになり、引っ越した後になって「鴨居の溝だ!」と思い出す。
でもその部屋はすでに他人が使っている。その他人の素姓を調べて、西木という名のその他人が飲み屋に入っているところを狙って同部屋の友みたいになり、しこたま飲ませて部屋にあげてもらう。鴨居なんか普通は調べないはずだから百円紙幣がそのまま残っているはずだという計算だったが、西木が席を外したすきに手を伸ばすと「あった!」。しかしあったのは十円紙幣が五枚だけ。そこを見つかり「それが狙いだったのか」と問い詰められるも「もともとは俺の金なんだから」と残りの五十円を握りしめて帰ったと。
「西木は金に困るたびに少しずつ使ったのだろう。そしておつりを元の鴨居に隠しておくところに彼の几帳面さがあったわけでしょう」と結ばれるのですが、まぁ、こんなの絶対作り話ですよね。
おつりを鴨居に隠しておくなんて普通しないでしょ。百円を見つけた時点で全部財布に入れるのが普通。考えてみれば、酔った自分が素面の自分のために金を隠すというこの作品の仕掛け自体がまったくの嘘八百。酔った人間がそんなことできるわけがない。そのことに最後になるまで気づかなかった。画竜点睛を欠く。最後にウソとすぐわかるウソを書くなんてもったいない! と思ったんですが……
アクロバティックな仕掛け
いや、しかし、ひょっとしたらできるのかも、という気がしてくる。私は酔ったら前後不覚になって介抱してもらうような酔い方しかしたことないけど、飲み慣れた人間ならちょうどよい酩酊加減のときに金を隠して醒めたら記憶がないというアクロバティックな飲み方ができるのかもしれない。
だから、西木という男がおつりを元の鴨居に隠しておくという嘘八百はあえて意図的に書いたものなのかしらん、と。
つまり、「これはエッセイでもなければ私小説でもない、まぎれもないフィクションですよ」というメッセージなのかも、と。
「私小説は日本文学の悪しき伝統」と主張する人の書くものなのだから、それぐらいのアクロバティックな書き方をしても不思議はない。
最初からフィクションとわかる書き方をすればいいのでしょうが(三人称で書くとか)でも、それをすると酔った自分が素面の自分のために金を隠すという「せこい面白さ」が失われる気がします。あくまでも著者自身が「こんなアホなことをやっていた」という体で話を進めたほうが面白い。
でも私小説ではない刻印を残しておきたいということで、あのようなオチにしたのかな、と思ったんですが、実際のところはどうなのでありましょうや?
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と思いながら読み進めると、ひとつだけ「これは絶対創作だろう!」と思えるものがありました。
「百円紙幣」
と題された20ページほどの作品がそれ。
この作品の主人公は、酔うと金を隠す癖がある。日記帳を開いたら十円紙幣が挟まっていて「大いなる拾い物をした」と喜ぶ友人の姿を見て、自分にも同じ癖がついたと。素面の自分に向けたプレゼントとして、酔ったら五円紙幣や十円紙幣や硬貨などもときどきいろんなところへ隠す。素面の自分はどこにいくら挟まっているか探すのが楽しい。
私は最初、私小説というかほとんどエッセイと思って読んでいたので、変な癖をもっていたんだなぁ、一流の文士になるためにはやはりそれぐらいの変態さが必要なのだろう、と思ってしまったけれど、結末に至って「これは創作なり!」と強く思ったわけです。
物語は後半に入ってサスペンスを増していきます。ボーナスが入ったときの百円紙幣が一枚足りないことに気づくも、酔った自分がどこかへ隠したか素面の自分にはわからない。わからないまま引っ越すことになり、引っ越した後になって「鴨居の溝だ!」と思い出す。
でもその部屋はすでに他人が使っている。その他人の素姓を調べて、西木という名のその他人が飲み屋に入っているところを狙って同部屋の友みたいになり、しこたま飲ませて部屋にあげてもらう。鴨居なんか普通は調べないはずだから百円紙幣がそのまま残っているはずだという計算だったが、西木が席を外したすきに手を伸ばすと「あった!」。しかしあったのは十円紙幣が五枚だけ。そこを見つかり「それが狙いだったのか」と問い詰められるも「もともとは俺の金なんだから」と残りの五十円を握りしめて帰ったと。
「西木は金に困るたびに少しずつ使ったのだろう。そしておつりを元の鴨居に隠しておくところに彼の几帳面さがあったわけでしょう」と結ばれるのですが、まぁ、こんなの絶対作り話ですよね。
おつりを鴨居に隠しておくなんて普通しないでしょ。百円を見つけた時点で全部財布に入れるのが普通。考えてみれば、酔った自分が素面の自分のために金を隠すというこの作品の仕掛け自体がまったくの嘘八百。酔った人間がそんなことできるわけがない。そのことに最後になるまで気づかなかった。画竜点睛を欠く。最後にウソとすぐわかるウソを書くなんてもったいない! と思ったんですが……
アクロバティックな仕掛け
いや、しかし、ひょっとしたらできるのかも、という気がしてくる。私は酔ったら前後不覚になって介抱してもらうような酔い方しかしたことないけど、飲み慣れた人間ならちょうどよい酩酊加減のときに金を隠して醒めたら記憶がないというアクロバティックな飲み方ができるのかもしれない。
だから、西木という男がおつりを元の鴨居に隠しておくという嘘八百はあえて意図的に書いたものなのかしらん、と。
つまり、「これはエッセイでもなければ私小説でもない、まぎれもないフィクションですよ」というメッセージなのかも、と。
「私小説は日本文学の悪しき伝統」と主張する人の書くものなのだから、それぐらいのアクロバティックな書き方をしても不思議はない。
最初からフィクションとわかる書き方をすればいいのでしょうが(三人称で書くとか)でも、それをすると酔った自分が素面の自分のために金を隠すという「せこい面白さ」が失われる気がします。あくまでも著者自身が「こんなアホなことをやっていた」という体で話を進めたほうが面白い。
でも私小説ではない刻印を残しておきたいということで、あのようなオチにしたのかな、と思ったんですが、実際のところはどうなのでありましょうや?
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