イギリス在住のブレイディみかこさんの子育てをめぐるエッセイ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』が抜群に面白かった。文壇で話題をさらったというのもうなずけます。


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イエローでホワイトで、グリーン?
著者は若い頃に渡英して、現在はアイルランド人の夫と息子と三人でブライトンという町に住んでいます。その息子を通して現代の病巣を見つめるバランスのいい姿勢が全体を貫いているのですが、書名の由来は、息子が宿題で書いた文章「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」から来ています。黄色人種と白人の混血だからブルー(憂鬱)なのかと著者は思うのですが、息子は「ブルーは怒りの意味だと思ってた。添削された」と。はたして息子が書いた「ブルー」はどっちの意味なのかと最初のエッセイは問いかけたまま終わります。

そして最後のエッセイでその答えが!

やっぱりブルーは憂鬱ということだったらしい。でも、環境問題に関心をもち、アメリカのバンド、グリーン・デイが大好きな息子のいまの気持ちは「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとグリーン」なんだとか。

環境問題がグリーンなのはわかるけど、「嫉妬」という意味もあるのは知らなかった。でも息子が一番グリーンにこめた意味は「未熟」「経験が足りない」ということらしい。なるほど、バナナも大豆も未熟なものは緑ですもんね。(枝豆が熟したものが大豆ですよ~)

移民の子どもだからブルー、混血児だからブルー、そういうのはきっと前時代的なコンセプトなのだと著者は結論します。そして「いまの彼はグリーンなのだ。その色はこれから変わり続けるのだろう」と息子の成長を見守る良妻賢母的な、あ、いや、肝っ玉母さん的な言葉と言ったほうが著者のお気に召しますかね? とにかくそういう一言でこの本は幕を閉じるのですが、何と刊行後も連載は続いているそうで、見事な幕切れだと思ったけれど、「このへんで単行本出せるから結論めいたもの書いてくださいよ」という編集者の要望に応えてのものなのでしょう。加筆・訂正という文言は一切ないし。


では、以下にこの本を読んで特に心に残ったところをつらつらと。


エンパシー
息子の期末試験の問題のひとつが「エンパシーとは何か」で、夫が何と書いたかと聞くと、

「自分で誰かの靴を履いてみること」

と答えたそうな。英語での定型表現で、他人の立場に立ってみるということだとか。日本語に訳すときは「共感」「感情移入」になることが多いとか。

イギリスは現在、EU離脱やテロの問題があり、これらの困難を乗り越えるためにはエンパシーが必要だ、いまはエンパシーの時代だというのが教師の主張らしい。それだけでもイギリスと日本の教育現場の差は大きすぎるほど大きいように思うけど、著者はさらに難しい問題を読者に突きつけます。

エンパシーに似た言葉にシンパシーがあるが、どう違うか。

辞書によると、シンパシーは「他者への同情や理解」。何だ、ほとんど同じじゃないか、と思うけれど、決定的な違いは、エンパシーは「能力」だということ。

シンパシーは、自分と似た境遇の人やかわいそうな人に対して自然に出てくる同情や理解のことだけど、エンパシーは能力だから、自分とは相容れない考えをもつ人や特にかわいそうとは思えない人に対して、その人はどういうことを考えているかを考える力のことなんだそうな。シンパシーは感情の状態、エンパシーは知的作業と言えるとか。なるほど。

しかし日本語にそのような言葉はない。「相手の立場に立って考えなさい」とはよく言われるけれど、それを指し示す単語はない。言葉がないということは概念がないということ。しかし、逆に言えばそういう意味の言葉を作れば概念が生まれるのではないか。明治維新の頃、「演説」「自由」などの訳語を案出した福沢諭吉や、「哲学」「芸術」「理性」などの西周のように。

と思ってちょっとだけ考えたんですけど、エンパシーをどういう日本語にしたらいいか、少しも妙案が浮かびませんでした。。。


いろいろあるのが普通
夫がアイルランド人なので著者の家はローマカトリック。カトリックでは体外受精は禁じられているのに息子はそれで生まれた。大きな声では言えない。いや小さな声でも言えない。ずっと息子に秘密にしていたけれど、小学校の高学年になったときに打ち明けた。かなり複雑な反応をするに違いないと踏んでいたのに、

「クール。うちの家も本物だなと思っちゃった」

と返事が返ってきて驚いたそうな。息子が言うには「いろいろあるのが普通だから」と。

エンパシーという言葉をネイティブに知っているからそう思えるのか。リベラルな著者夫妻に育てられたからそう思えるのか。どちらかはわからないけれど、小学校高学年でそういうことが言えるというのはすごいことだと思う。彼我の差は本当に大きい。


クエスチョニング
日本ではアホな政治家が「LGBTは生産性がないから~」などという発言を普通にしますが、イギリスも同じらしく「同性愛と国益は相反する」と政治家もメディアも同じことを言うそうな。

息子は「LGBTQについて習った」というんだけど、え? LGBTじゃなの? Qって何?

と思ったら、「クエスチョニング」の頭文字らしく、「自分がどういう性的嗜好をもっているかよくわからない人」のことらしい。

試みに調べてみると、さらに進んで「LGBTQIA」という言葉もあるあるらしく、Iはインターセックスで「生まれつき男女両方の身体的特徴をもつ人」の意、Aはアセクシャルで「誰に対しても恋愛感情や性的欲求を抱かない人」なんですって。知らなかった。

クエスチョニングに話を戻すと、以前、新聞のコラムにこんな話が載っていました。

「普通に恋愛結婚をして子どもも二人できた50代の男性が、ある日突然『運命の男』に出逢い、自分が同性愛者であることに気づいた結果、家庭は崩壊したが、男二人で幸せに暮らしている」

そういう人って実際に結構な数いるそうです。若いときに自覚するのかと思ったらそうではなく、運命の人と出逢うことで覚醒するらしい。おそらく「異性愛だけが普通」という抑圧のなかでみんな生活しているから本来のセクシャリティがわからないんでしょうね。

だから、人間はほとんどの人がクエスチョニングなんじゃないの? というのが私の主張。ヘテロと思ってたらゲイやレズビアンだった、という前述の例が多数でしょうが、逆の場合もあるのかも。


セキュア・ベース=安全基地
孤児で里親が何度も変わっている子どもがイギリスにはたくさんいるそうです。親が変わるというのは外界から自分を守ってくれる安定した基地がどんどん変わるのと同じこと。アメリカの心理学者はこれを「セキュア・ベース(安全基地)」と呼んでいるらしい。

そして、「安全基地に恵まれずに育った人間は、どうやって自分が安全基地になったらいいかわからず、子育てで苦しむ」と。

ずっと以前の職場の同僚がこんなことを言っていました。彼は職場の女性と付き合っていたのですが、

「彼女と結婚したいんです。でも子どもがほしいって。それはいやなんです。恐いんです。親からまともに叱られたことがないからどうやって叱ったらいいかわからない」

何と答えたか忘れましたが、なるほど、そういう理由で子どもがほしくない人間もいるのかと。ずっと忘れていたことをこの本が思い出させてくれました。


配偶者
これまで私は著者の配偶者のことを普通に「夫」と表現してきましたけど、著者は「配偶者」というえらく事務的な表現をします。

そういえば、ツイッターのフォロワーさんでそういう呼び方してる人が何人かいました。

そりゃ、著者は女性だから「旦那」「主人」とは呼びたくないという気持ちはわかります。でも「夫」なら何も問題ないような気がしますが……? 夫とか妻とか言わずに「配偶者」「家人」とかって表現するのが「いまどきのクール」なんですかね? 

この本、とても面白かったけれど、「配偶者」の響きだけは好きになれなかったです。








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