このところ、『さよならくちびる』『アナと世界の終わり』など音楽映画・ミュージカル映画と縁が深く、どちらも大いに楽しみましたが、またも音楽映画の傑作と出逢いました。


『ハーツ・ビート・ラウド たびだちのうた』(2018、アメリカ)
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脚本:ブレット・ヘイリー&マーク・バッシュ
監督:ブレット・ヘイリー
出演:ニック・オファーマン、カーシー・クレモンズ、テッド・ダンソン、トニ・コレット


さりげない描写
父と娘の「バンドではないバンド活動」を描くこの映画は、何より「さりげない描写」がいいと思いました。

・人種
亡妻は黒人。だから娘は白人と黒人の混血。でもそのことに少しも触れない。映画なんだから見ればこういう家族とわかるだろう、ということでしょう。

・娘の同性愛
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娘は学校のある女の子と同性愛の関係にあるんですが、そのことにも声高に触れない。父親に「彼女がいる」と告白してもショックを受けるでも怒るでもなく、「そうか」という素っ気ないリアクション。あの素っ気なさが素敵。

・省略
最後の省略が顕著ですかね。
バンドを組んで動画が人気になったりもするけれど、さらなるバンド活動に乗り気の父親に対し娘はあくまでも医者志望。でも最後の店でのライブを経て「私が残りたいと言ったら?」という娘を父親はただ厳しく見返すだけで、次のシーンには遠くへ引っ越した娘とメッセージのやり取りをしている。「残っちゃだめだ」「どうして⁉」とか何だかんだの愁嘆場みたいなのをやってもいいでしょう。むしろ、大事なところを逃げていると偉い脚本家の先生は怒るかもしれません。でも私はあれでいいと思う。この映画はあくまで歌が主役。人間同士のセリフのやり取りなど邪魔になるだけ。そんなのは省略してすぐ次の歌に移ったほうがいい。


『ナタリーの朝』とは似て非なる
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かつて『ナタリーの朝』という映画がありました。家を飛び出したナタリーという少女が、一人暮らしを始め、そこで出逢った階下に住む男性と恋に落ち……という物語。

『ナタリーの朝』の要諦は、恋愛関係、つまり心理的に水平関係にある二人を、階上と階下に住むという物理的に上下関係に置いたことにあります。そうすることで映画内世界が立体的になっていました。

『ハーツ・ビート・ラウド』ではどうだったか。『ナタリーの朝』のような物理的な上下・水平関係というのはありません。(やはり『ナタリーの朝』はひとつの発明をした一大傑作だったのか)

その代わり、二人はバンドメンバーとしては対等だから心理的に水平関係ですが、親子なので同時に上下関係でもありますよね。ただ、ここで肝要なのは、普通なら上であるはずの父親のほうがほとんど下に位置していることです。娘のほうがしっかりしていて、父親は子どもみたい。いつまでも亡妻のことが忘れられず過去に囚われている父親に対し、娘は未来を見据えている。

かと思えば、最後のライブでろくに練習してない歌をやろうと父親が言い出すと、まだ若く失敗を恐れる娘は物怖じする。「思い切って行くぞ」と娘の尻を叩く父親は、ここでは完全に上です。前述の「残りたいと言ったら?」というときも上から諭したのだろうし、この親子は、どちらが上かはっきりしない、流動的関係にあります。そこが面白い。

『once ダブリンの街角で』なんかは、主役の男女が恋仲になるからか(恋仲といっても単純じゃないんですが)ずっと水平関係に位置していたように思います。

『ハーツ・ビート・ラウド』は主役の二人を常に上下関係として捉えるんですが、どちらが上位かはその都度変わる。娘は思春期だから揺れ動くのはわかりますが、父親をも揺れ動く子どものようなキャラクターに設定して描写しきった脚本家チームの勝利でしょう。役者さんもよかった。芝居もいいけど、面構えがいいし、あのひげが何とも言えない味わい。

素晴らしい映画でした。(それにしてもテッド・ダンソン、歳食いましたね)


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