1972年のレコード大賞で発売からたった3か月で受賞した、ちあきなおみの『喝采』。

聴いたことあるよという人もまずは聴いてください。(ユーチューブでは途中がカットされてる不完全版がほとんどですが、以下の動画は完全版です)





作詞:吉田旺 作曲:中村泰士

いつものように幕が開き
恋の歌うたう私に
届いた報らせは 黒いふちどりがありました

あれは3年前 止めるあなた駅に残し
動き始めた汽車に ひとり飛び乗った

ひなびた町の昼下がり
教会のまえにたたずみ
喪服の私は 祈る言葉さえ 失くしてた

つたがからまる白い壁
細いかげ長く落として
ひとりの私は こぼす涙さえ忘れてた

暗い待合室 話すひともない私の
耳に私のうたが 通りすぎてゆく

いつものように幕が開く
降りそそぐライトのその中
それでも私は 今日も恋の歌 歌ってる


ちあきなおみの実体験
ちあきなおみ自身に同じような体験があったそうです。だからこれは「メタ」ですよね。歌い手自身が「私」と語る一人称の歌詞ですが、その歌い手である「私」がフィクションの「私」でもあると同時に、歌手・ちあきなおみ自身でもあるという。ちあきなおみが自分で作詞したのならメタとは言わないかもですが、作詞家はそういう事情を知らないで作詞したらしい。歌い終わって嗚咽したちあきなおみは、レコード大賞を受賞して泣いていたのか、それとも歌の中の自身の体験を思い出して泣いてたのか。おそらくその両方なのでしょう。


映画化できるか!?
さて、この『喝采』に関して「この時代の歌はみんな3分間の映画だなぁ」と言ってる人がいました。確かに波瀾万丈の人生の断面が描かれているという意味ではそうでしょう。でも、この『喝采』は映画にできない。

なぜなら、この歌に含まれる「時間」と「人称」が問題です。

この歌の主人公にとっての「現在」はどこにあるかというと、最後の「それでも私は 今日も恋の歌 歌ってる」というラストなのは誰の目にも明らか。でも、それは歌が終わるときに初めてわかることですよね?

映画にするとなると、まずファーストシーン、今日も舞台に立つヒロインが、数日前にかつての恋人の死を知らせる電報(「黒い縁取り」は訃報を意味します)が届いたことを思い出し、3年前の別れを回想し、葬式で言葉を失ったことを回想し、そして現在、それでも恋の歌を歌い続けるという終幕でいいのでは? 『イヴの総て』や『裸足の伯爵夫人』みたいな回想形式の映画にすればいい。

確かにお話をなぞるだけならそれでもいいでしょう。しかしながら、映画も詩も「お話」だけから成っているわけではありません。


主人公の「現在」はどこにある?
虚心坦懐にもう一度聴いてみてください。この歌の主人公の「現在」はどこにあるのか。

最初の「いつのように幕が開き 恋の歌うたう私に」のところで、聴き手は歌い手が電報を受け取ったときがまぎれもないヒロインの「いま現在」だと感じます。いま現在のヒロインが電報を受け取って3年前を回想し、葬式に行って言葉を失う。しかし最後で明らかになるのは、聴き手がいま現在だと思っていた時間はすべて過去であり、回想だったということです。

本当のいま現在のヒロインは、恋を捨て、恋人を亡くし、自責の念に駆られながらも、今日も恋の歌を歌うことに、歌うことで喝采を浴びることに悦びを感じているのです。

最後の部分の解釈はいろいろありましょう。後悔に苛まれながらも今日も恋の歌を歌う自分って何なの? 偉そうに歌う資格があるの? 喝采を浴びてて本当にいいの? という意味にも受け取れます。


この歌詞をどう解釈するか
しかしながら、私の耳には、後悔に苛まれながらも歌っている自分が好き、喝采を浴びる自分が好き、だから、3年前あなたを捨てたのよ、という歌に聞こえます。そういうふうに解釈しないと、

暗い待合室 話すひともない私の 
耳に私のうたが 通りすぎてゆく


という部分がなぜ必要なのかわからなくなりますし、「それでも歌う」理由もわからなくなります。本当に後悔と自責の念に苛まれているのなら、もう恋の歌なんか歌わないはず。それでも歌うのは3年前恋人を捨てたのと同じように、後悔に苛まれた自分をも捨てたからでしょう。

この部分が「あれは3年前~」と同じメロディで歌われていることが肝要です。3年前恋人を捨てたことを後悔しながらも、いま現在どうしても自分の歌が聞こえてきてしまう。彼女は自分の罪に打ちひしがれながらも、後悔した自分をも捨てようとしている。それでも歌いたいのです。自分には歌しかないと思っているのです。

いつものように幕が開く
降りそそぐライトのその中
それでもわたしは 今日も恋の歌 うたってる 

ここで聴き手は、主人公にとっての現在が最初の「いつものように幕が開き」のところではなく、最後の「いつものように幕が開く」ところだと初めてわかるわけですが、その秘訣はこの歌が「一人称」で歌われていることにあります。一人称の語りが独特の時間構造を生んでいます。

だから、時系列では最後のこのシーンを現在として、回想形式で映画にすると、この歌の本来の面白さが損なわれてしまいます。

『喝采』は、ずっとヒロインに寄り添ってきたつもりの聴き手が、最後の最後で突如現れた現在のヒロインによってせせら笑われる歌です。聴き手を嘲笑うかのように、恋人だけでなく後悔する自分をも捨て、今日も恋の歌を歌う女のしたたかさ。

こういうのを「詩」というのです。「3分間の映画」というのも間違いではないでしょうが、私は決して映画にできない詩というものの奥深さを感じます。


ちあきなおみ 沈黙の理由
古賀 慎一郎
新潮社
2020-08-26



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