『コンビニ人間』『地球星人』などで快進撃を続ける村田沙耶香さんのエッセイ集『となりの脳世界』を読みました。

「右側」を応援する村田沙耶香
一番、おおおお!と思ったのは、
「スポーツを見るときはいつも右側を応援している」
というフレーズですね。
スーパーマリオは左から右に動いて敵をやっつける。みんな左側を応援する。左側のほうが正義で、右側は悪。そういう世間的な価値観を信用できない著者は、右側を応援するようになったらしい。
この「何となく正しいとされているものにそっぽを向く姿勢」はこの本の通奏低音になっています。かといって、左側を応援する人たちを軽侮して孤高を気取るというのでもない。自分は確かにこの世界の住人だしこの世界で生きていきたいのだけど、でも何かちょっと居心地が悪い。
「いま、ここ」も大事だけど「いつか、どこかで」も大事にしたい。この『となりの脳世界』は前半が妄想ばかりのエッセイで、後半が地に足の着いたものという構成になっているのですが、前者が「いつか、どこかで」を希求する著者の真骨頂で、後者は、それでもやっぱりこの世界で生きていきたいという、変人・村田沙耶香のありふれた日常「いま、ここ」が描かれていてよかった。こんな普通の言動や思考もするのね、などと。
以下、特に印象に残ったフレーズを挙げていきます。
いつか、どこかで
「不完全な大人のままで」
私は、そのとき、「死にたかった」。そして、根底ではとても「生きたかった」。
私もそう。いまでも、そう。というか、このフレーズこそ「『いま、ここ』も大事だけど『いつか、どこかで』も大事にしたい」という心の叫びを感じました。
「こそそめスープ」
コンソメスープではなく、コソソメスープだと信じて疑わなかったとか。誰もが「こんそめ」と発音していると知りながら、それは安手の食堂で出すまがいもので、「こそそめスープ」こそ高級店のシェフが作る本物だと思っていた。
はっきり言ってアホですが、ここまで来ると頭が下がる。そして村田沙耶香の脳内世界を訪れたら、一緒に「こそそめスープ」を飲めるそうな。行ってみたい。いつか、どこかで。
「正座が逆の人へ」
つま先を外側に開く独特の座り方をしてしまうそうな。いつか同じ正座の仕方をする人と出逢って楽しく語らいたい。いつか、どこかで。
「背平泳ぎのこと」
正座が逆だからこういう泳ぎ方をしてしまうんでしょうか。ここでも「いつか背平泳ぎの大会が開かれる日のために練習している」とあり、笑いながらも「いつか、どこかで」というこの世では味わえない幸福を感じて哀しくなります。
友だちに背平泳ぎを教えたらみんな嬉々としてやってくれたのはうれしいけど、「しかも、私より上手だった」というのはもっと哀しいか。(笑)
「間違い感動」
クリオネを見に水族館に行ったら、1メートルくらいのクリオネの模型があって、それを等身大のクリオネと思い込んで感動したそうな。
『荒野のダッチワイフ』『処女ゲバゲバ』などで知られる脚本家・大和屋竺も、敬愛する黒澤明がソ連で『デルス・ウザーラ』という映画を撮る、というニュースを見て、なぜか『デルス・ザウルス』と読み違えてしまい、「あの黒澤がついに怪獣映画を!?!?」と大興奮しまくったという笑い話を思い出します。天才とバカは紙一重とはよく言ったもの。
「でも、もしクリオネが1メートルもあると勘違いしたその瞬間に地球が滅んだら、私の間違いは訂正されず、私のなかで真実となるのだ。感動っていったい何なんだろう」というのも「真実はどこか他の世界にある」という村田沙耶香の土台があればこそのフレーズでしょう。本当に1メートルのクリオネと出逢えるかもしれません、いつか、どこかで。
似ている自画像
「宝物の棒の想い出」
なぜか子どもの頃、棒を拾う癖があったらしい。でこぼこの道を棒を引きずって歩くときの振動がたまらなく気持ちよかったとか。
私も「快感の追求に執念を感じる」と言われるのでよくわかります。幼い頃、ウンコを我慢することに快感を見出していたんです。我慢に我慢を重ねるとウンコがひゅんと中へ引っ込むでしょ? あの感触がたまらなく気持ちよくて。
「音楽を観る」
音楽を聴くのではなく、観る、という村田沙耶香。音楽から浮かんでくる映像を観るのが好きらしい。共感覚というものかな。私は音を視覚的に感じるということはないけれど、色に数字を感じる共感覚は少しだけもっています。白=1、黄=2、橙=4、赤=5、青=6、緑=7、黒=10とか。なぜ3、8、9がないのかはわかりませんが。
そんなことより、一人でニヤニヤしているのが私とよく似ている。頭の中に妄想が渦巻いているのでついニヤけてしまい、「何がそんなに面白いんですか?」って訊かれちゃうんですよ。
かすり傷を重傷と思うかどうか
「バス自意識過剰」
「睡眠と反省」
「親切エレベーター」
これらに共通するのは「かすり傷を重傷と考える」作家というものの性ですね。というか、かすり傷を重傷と勘違いする感受性がないと作家にはなれない。よく経験の量が大事みたいなことを言う人がいますが、量も大事だけど質はもっと大事。何でもないことを大げさに考える、というのはひとつの才能。そんな能力は普通はあったほうが困る。社会不適応者になってしまう。村田沙耶香も作家になれなかったら「変な人」と陰で笑われて一生を終えることになったでしょう。とてもうらやましい。
文章読本
何でもない表現に「文士・村田沙耶香」を感じる箇所がありました。
「わん太の目」
小学校三年生のクリスマス、サンタさんがクマのぬいぐるみをくれた。
普通なら「私はそのときまでサンタクロースが実在すると思っていたのだ」などと注釈をつけるものですが、村田沙耶香はそうしない。「サンタさんがぬいぐるみをくれた」のフレーズだけでそれを表現できてしまっている。「何を書かないか」ということにもとても意識的だと思う。
「生え替わる髪の毛」
そうなのか、やっぱり自分はおばあちゃんに似てるんだなぁ。
これも「おばあちゃん子だった」みたいな注釈を一切加えない。加えなくてもわかるから。
「四度目の出会い」
私は虫は平気なほうだがゴキブリだけは駄目で、見ると惨殺してしまう。
「惨殺」という言葉のチョイスが素晴らしい。一行目から引き込まれる。
というわけで、ますます村田沙耶香さんの作品から目が離せなくなりました。
ビバ! 村田沙耶香!!
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「右側」を応援する村田沙耶香
一番、おおおお!と思ったのは、
「スポーツを見るときはいつも右側を応援している」
というフレーズですね。
スーパーマリオは左から右に動いて敵をやっつける。みんな左側を応援する。左側のほうが正義で、右側は悪。そういう世間的な価値観を信用できない著者は、右側を応援するようになったらしい。
この「何となく正しいとされているものにそっぽを向く姿勢」はこの本の通奏低音になっています。かといって、左側を応援する人たちを軽侮して孤高を気取るというのでもない。自分は確かにこの世界の住人だしこの世界で生きていきたいのだけど、でも何かちょっと居心地が悪い。
「いま、ここ」も大事だけど「いつか、どこかで」も大事にしたい。この『となりの脳世界』は前半が妄想ばかりのエッセイで、後半が地に足の着いたものという構成になっているのですが、前者が「いつか、どこかで」を希求する著者の真骨頂で、後者は、それでもやっぱりこの世界で生きていきたいという、変人・村田沙耶香のありふれた日常「いま、ここ」が描かれていてよかった。こんな普通の言動や思考もするのね、などと。
以下、特に印象に残ったフレーズを挙げていきます。
いつか、どこかで
「不完全な大人のままで」
私は、そのとき、「死にたかった」。そして、根底ではとても「生きたかった」。
私もそう。いまでも、そう。というか、このフレーズこそ「『いま、ここ』も大事だけど『いつか、どこかで』も大事にしたい」という心の叫びを感じました。
「こそそめスープ」
コンソメスープではなく、コソソメスープだと信じて疑わなかったとか。誰もが「こんそめ」と発音していると知りながら、それは安手の食堂で出すまがいもので、「こそそめスープ」こそ高級店のシェフが作る本物だと思っていた。
はっきり言ってアホですが、ここまで来ると頭が下がる。そして村田沙耶香の脳内世界を訪れたら、一緒に「こそそめスープ」を飲めるそうな。行ってみたい。いつか、どこかで。
「正座が逆の人へ」
つま先を外側に開く独特の座り方をしてしまうそうな。いつか同じ正座の仕方をする人と出逢って楽しく語らいたい。いつか、どこかで。
「背平泳ぎのこと」
正座が逆だからこういう泳ぎ方をしてしまうんでしょうか。ここでも「いつか背平泳ぎの大会が開かれる日のために練習している」とあり、笑いながらも「いつか、どこかで」というこの世では味わえない幸福を感じて哀しくなります。
友だちに背平泳ぎを教えたらみんな嬉々としてやってくれたのはうれしいけど、「しかも、私より上手だった」というのはもっと哀しいか。(笑)
「間違い感動」
クリオネを見に水族館に行ったら、1メートルくらいのクリオネの模型があって、それを等身大のクリオネと思い込んで感動したそうな。
『荒野のダッチワイフ』『処女ゲバゲバ』などで知られる脚本家・大和屋竺も、敬愛する黒澤明がソ連で『デルス・ウザーラ』という映画を撮る、というニュースを見て、なぜか『デルス・ザウルス』と読み違えてしまい、「あの黒澤がついに怪獣映画を!?!?」と大興奮しまくったという笑い話を思い出します。天才とバカは紙一重とはよく言ったもの。
「でも、もしクリオネが1メートルもあると勘違いしたその瞬間に地球が滅んだら、私の間違いは訂正されず、私のなかで真実となるのだ。感動っていったい何なんだろう」というのも「真実はどこか他の世界にある」という村田沙耶香の土台があればこそのフレーズでしょう。本当に1メートルのクリオネと出逢えるかもしれません、いつか、どこかで。
似ている自画像
「宝物の棒の想い出」
なぜか子どもの頃、棒を拾う癖があったらしい。でこぼこの道を棒を引きずって歩くときの振動がたまらなく気持ちよかったとか。
私も「快感の追求に執念を感じる」と言われるのでよくわかります。幼い頃、ウンコを我慢することに快感を見出していたんです。我慢に我慢を重ねるとウンコがひゅんと中へ引っ込むでしょ? あの感触がたまらなく気持ちよくて。
「音楽を観る」
音楽を聴くのではなく、観る、という村田沙耶香。音楽から浮かんでくる映像を観るのが好きらしい。共感覚というものかな。私は音を視覚的に感じるということはないけれど、色に数字を感じる共感覚は少しだけもっています。白=1、黄=2、橙=4、赤=5、青=6、緑=7、黒=10とか。なぜ3、8、9がないのかはわかりませんが。
そんなことより、一人でニヤニヤしているのが私とよく似ている。頭の中に妄想が渦巻いているのでついニヤけてしまい、「何がそんなに面白いんですか?」って訊かれちゃうんですよ。
かすり傷を重傷と思うかどうか
「バス自意識過剰」
「睡眠と反省」
「親切エレベーター」
これらに共通するのは「かすり傷を重傷と考える」作家というものの性ですね。というか、かすり傷を重傷と勘違いする感受性がないと作家にはなれない。よく経験の量が大事みたいなことを言う人がいますが、量も大事だけど質はもっと大事。何でもないことを大げさに考える、というのはひとつの才能。そんな能力は普通はあったほうが困る。社会不適応者になってしまう。村田沙耶香も作家になれなかったら「変な人」と陰で笑われて一生を終えることになったでしょう。とてもうらやましい。
文章読本
何でもない表現に「文士・村田沙耶香」を感じる箇所がありました。
「わん太の目」
小学校三年生のクリスマス、サンタさんがクマのぬいぐるみをくれた。
普通なら「私はそのときまでサンタクロースが実在すると思っていたのだ」などと注釈をつけるものですが、村田沙耶香はそうしない。「サンタさんがぬいぐるみをくれた」のフレーズだけでそれを表現できてしまっている。「何を書かないか」ということにもとても意識的だと思う。
「生え替わる髪の毛」
そうなのか、やっぱり自分はおばあちゃんに似てるんだなぁ。
これも「おばあちゃん子だった」みたいな注釈を一切加えない。加えなくてもわかるから。
「四度目の出会い」
私は虫は平気なほうだがゴキブリだけは駄目で、見ると惨殺してしまう。
「惨殺」という言葉のチョイスが素晴らしい。一行目から引き込まれる。
というわけで、ますます村田沙耶香さんの作品から目が離せなくなりました。
ビバ! 村田沙耶香!!
関連記事
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『地球星人』3年目の新解釈(作者の怒りに心安らぐ)
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