山田太一脚本、鶴田浩二主演による『男たちの旅路』第1部第3話「猟銃」。

デウス・エクス・マキーナ
鶴田浩二がまた若者の胸を痛打する爽快な一編ですが、これ、デウス・エクス・マキーナを使ってるんですね。
デウス・エクス・マキーナというのは、ギリシア悲劇で非難の的だった「機械仕掛けの神」のこと。いろんな難題がある物語を、最後に突然現れた神様の一言で解決して終幕させる手法。これから派生して最後に突然現れた悪人を退治して一件落着というのもデウス・エクス・マキーナと言われます。いわばご都合主義の手法ですね。
『男たちの旅路』全体では、鶴田浩二演じる吉岡司令補という、若者が嫌いな主人公が変化する過程を描いています。
特にこの第1部ではそれがメインの葛藤を織り成している。第1話「非常階段」では甘ったれた自殺未遂者・桃井かおりを叱責し、第2話「路面電車」では万引き犯に肩入れすることがやさしさだと勘違いする水谷豊らを叱責して退職に追いやります。
第2部以降は若者にも理があり、大人たちや老人にも問題があるという主題になって鶴田浩二の変化のほうが主題になりますが、ここではまだ鶴田浩二が若者たちを変化させるのが主眼。
だから、この「猟銃」でのデウス・エクス・マキーナは、水谷豊、森田健作、桃井かおりという若者たち3人を鶴田浩二が変化させるために、終盤突然現れた猟銃強盗犯のことです。
彼ら強盗犯は、第2話で辞めてしまった若者たちをもう一度鶴田浩二のもとへ帰らせる役目を担っています。デウス・エクス・マキーナというのは、第1部全体を通してのことです。第1部を一気に収束させるための手。これが実にうまいというか、いままで何度も見てるのに、あれがデウス・エクス・マキーナとは気づきませんでした。
ファーストシーンで暗示にかける
冒頭で猟銃をぶっ放すシーンがあるからでしょうね。あくまでも「猟銃」一編だけに限れば、デウス・エクス・マキーナではない。でもシリーズ全体を見るとデウス・エクス・マキーナである。なるほど、禁じ手と言われる手法もこういうふうにすればうまい手法に変わるのかと勉強になりました。
この第3話の眼目は、鶴田浩二と久我美子の30年間の恋愛ですよね。それを猟銃をぶっ放すシーンから始める。これはセオリーではない。鶴田浩二と久我美子の物語に関連する場面をファーストシーンにもってくるのがセオリー。たとえば、猟銃発砲の次の場面、久我美子が息子の森田健作の家を訪ねるところをファーストシーンにもってくるとか。もしこの話単独ならばそうしないといけない。
しかし、山田太一さんは猟銃をファーストシーンにもってきた。これはおそらく強盗犯がデウス・エクス・マキーナであることを悟られたくなかったからでしょう。この話はあくまでも強盗犯を捕まえる話なんですよ、と視聴者を暗示にかけるためのいわば詐術です。タイトルを「猟銃」にしていることからも明らかです。どう見ても鶴田浩二と久我美子の話なのに。それを通して若者たちの内面を激変させる話なのに、猟銃を最初から意識させておけば両方がうまく絡まった話に見えるだろうという計算。すべての詐術がダメなわけではない。使ったほうがいい詐術もある。嘘も方便。
山田太一さんのあの手この手
とはいえ、強盗犯が「おまえらどうせカネなんだろ? カネで動く奴が俺は好きだ。正義だ何だとかいう奴は嫌いでね」という場面はちょっと白けますよね。水谷豊たちと同じことを言うもんだから、鶴田浩二が彼らを倒すことで若者たちが改心することがわかってしまう。
しかし山田太一さんは工夫を怠らない。鶴田浩二が突っかかっていって撃たれ、それを見た他の警備士が「私にも吉岡さんと同じ誇りがある!」と言い、最終的に若者3人が強盗犯を捕まえる。若者たちの無意識の発露に任せる。鶴田浩二はきっかけを作るだけ。
吉岡司令補の意地
「じゃあ、おまえはどういうのがほんとだと言うんだ。カネのためならほんとだと言い、人のためなら偽善だと言う。人間はそんな単純なものじゃない。そういうふうに高をくくっちゃいかん」
素晴らしいセリフですが、ここで問題なのは、鶴田浩二は水谷豊たちにこのセリフを言ったから、それを実践するために強盗犯に立ち向かっていったのか、ということです。
冒頭の猟銃乱射事件のあと、現場を見に来た鶴田浩二が若い警備士たちに言いますよね。
「我々は丸腰だ。犯人を見つけたからといって無理に立ち向かわないことだ」
これは警備員としての一般論であるのは明らかですが、とすると、やっぱり我らが吉岡司令補は水谷豊たちとのあれこれがなくても丸腰で立ち向かっていったんでしょうか。
私の解釈は否、です。だって、自分が立ち向かっていくことで他の者が全員殺されるかもしれないんだから行かないでしょう。彼一人なら立ち向かっていったかもしれませんが、7人もの命がかかっているときにあの吉岡司令補がそんな無茶なことをするはずがない。
突っかかっていくときの鶴田浩二は冷静さを完全に失っています。やはり久我美子との30年に及ぶプラトニックラブを否定されたことで感情的になっていたのでしょう。常に冷静沈着だった吉岡司令補が初めて人間的な一面を見せる。警備員としての責任とか本分とかでなく、一人の男としての「意地」。
だから、犯人がデウス・エクス・マキーナであることは確かですが、機械仕掛けの神がメインプロットを解決する代わりに、メインプロットで生み出された激烈なエモーションが機械仕掛けの神を成敗してどちらも首尾よく解決される、という仕組みにもなっている。
実にうまい。完全に脱帽ですわ。
続きの記事
『男たちの旅路』②-①「廃車置場」感想(手段と目的の狭間で)
『男たちの旅路』③-②「墓場の島」感想(初めて鶴田浩二の言葉に納得できない)
『男たちの旅路』④-①「流氷」(流氷とは水谷豊のことだ)
『男たちの旅路』④-②「影の領域」(善と善の対立がドラマを深める)
『男たちの旅路』④-③「車輪の一歩」(人間にとって神とは何か)

デウス・エクス・マキーナ
鶴田浩二がまた若者の胸を痛打する爽快な一編ですが、これ、デウス・エクス・マキーナを使ってるんですね。
デウス・エクス・マキーナというのは、ギリシア悲劇で非難の的だった「機械仕掛けの神」のこと。いろんな難題がある物語を、最後に突然現れた神様の一言で解決して終幕させる手法。これから派生して最後に突然現れた悪人を退治して一件落着というのもデウス・エクス・マキーナと言われます。いわばご都合主義の手法ですね。
『男たちの旅路』全体では、鶴田浩二演じる吉岡司令補という、若者が嫌いな主人公が変化する過程を描いています。
特にこの第1部ではそれがメインの葛藤を織り成している。第1話「非常階段」では甘ったれた自殺未遂者・桃井かおりを叱責し、第2話「路面電車」では万引き犯に肩入れすることがやさしさだと勘違いする水谷豊らを叱責して退職に追いやります。
第2部以降は若者にも理があり、大人たちや老人にも問題があるという主題になって鶴田浩二の変化のほうが主題になりますが、ここではまだ鶴田浩二が若者たちを変化させるのが主眼。
だから、この「猟銃」でのデウス・エクス・マキーナは、水谷豊、森田健作、桃井かおりという若者たち3人を鶴田浩二が変化させるために、終盤突然現れた猟銃強盗犯のことです。
彼ら強盗犯は、第2話で辞めてしまった若者たちをもう一度鶴田浩二のもとへ帰らせる役目を担っています。デウス・エクス・マキーナというのは、第1部全体を通してのことです。第1部を一気に収束させるための手。これが実にうまいというか、いままで何度も見てるのに、あれがデウス・エクス・マキーナとは気づきませんでした。
ファーストシーンで暗示にかける
冒頭で猟銃をぶっ放すシーンがあるからでしょうね。あくまでも「猟銃」一編だけに限れば、デウス・エクス・マキーナではない。でもシリーズ全体を見るとデウス・エクス・マキーナである。なるほど、禁じ手と言われる手法もこういうふうにすればうまい手法に変わるのかと勉強になりました。
この第3話の眼目は、鶴田浩二と久我美子の30年間の恋愛ですよね。それを猟銃をぶっ放すシーンから始める。これはセオリーではない。鶴田浩二と久我美子の物語に関連する場面をファーストシーンにもってくるのがセオリー。たとえば、猟銃発砲の次の場面、久我美子が息子の森田健作の家を訪ねるところをファーストシーンにもってくるとか。もしこの話単独ならばそうしないといけない。
しかし、山田太一さんは猟銃をファーストシーンにもってきた。これはおそらく強盗犯がデウス・エクス・マキーナであることを悟られたくなかったからでしょう。この話はあくまでも強盗犯を捕まえる話なんですよ、と視聴者を暗示にかけるためのいわば詐術です。タイトルを「猟銃」にしていることからも明らかです。どう見ても鶴田浩二と久我美子の話なのに。それを通して若者たちの内面を激変させる話なのに、猟銃を最初から意識させておけば両方がうまく絡まった話に見えるだろうという計算。すべての詐術がダメなわけではない。使ったほうがいい詐術もある。嘘も方便。
山田太一さんのあの手この手
とはいえ、強盗犯が「おまえらどうせカネなんだろ? カネで動く奴が俺は好きだ。正義だ何だとかいう奴は嫌いでね」という場面はちょっと白けますよね。水谷豊たちと同じことを言うもんだから、鶴田浩二が彼らを倒すことで若者たちが改心することがわかってしまう。
しかし山田太一さんは工夫を怠らない。鶴田浩二が突っかかっていって撃たれ、それを見た他の警備士が「私にも吉岡さんと同じ誇りがある!」と言い、最終的に若者3人が強盗犯を捕まえる。若者たちの無意識の発露に任せる。鶴田浩二はきっかけを作るだけ。
吉岡司令補の意地
「じゃあ、おまえはどういうのがほんとだと言うんだ。カネのためならほんとだと言い、人のためなら偽善だと言う。人間はそんな単純なものじゃない。そういうふうに高をくくっちゃいかん」
素晴らしいセリフですが、ここで問題なのは、鶴田浩二は水谷豊たちにこのセリフを言ったから、それを実践するために強盗犯に立ち向かっていったのか、ということです。
冒頭の猟銃乱射事件のあと、現場を見に来た鶴田浩二が若い警備士たちに言いますよね。
「我々は丸腰だ。犯人を見つけたからといって無理に立ち向かわないことだ」
これは警備員としての一般論であるのは明らかですが、とすると、やっぱり我らが吉岡司令補は水谷豊たちとのあれこれがなくても丸腰で立ち向かっていったんでしょうか。
私の解釈は否、です。だって、自分が立ち向かっていくことで他の者が全員殺されるかもしれないんだから行かないでしょう。彼一人なら立ち向かっていったかもしれませんが、7人もの命がかかっているときにあの吉岡司令補がそんな無茶なことをするはずがない。
突っかかっていくときの鶴田浩二は冷静さを完全に失っています。やはり久我美子との30年に及ぶプラトニックラブを否定されたことで感情的になっていたのでしょう。常に冷静沈着だった吉岡司令補が初めて人間的な一面を見せる。警備員としての責任とか本分とかでなく、一人の男としての「意地」。
だから、犯人がデウス・エクス・マキーナであることは確かですが、機械仕掛けの神がメインプロットを解決する代わりに、メインプロットで生み出された激烈なエモーションが機械仕掛けの神を成敗してどちらも首尾よく解決される、という仕組みにもなっている。
実にうまい。完全に脱帽ですわ。
続きの記事
『男たちの旅路』②-①「廃車置場」感想(手段と目的の狭間で)
『男たちの旅路』③-②「墓場の島」感想(初めて鶴田浩二の言葉に納得できない)
『男たちの旅路』④-①「流氷」(流氷とは水谷豊のことだ)
『男たちの旅路』④-②「影の領域」(善と善の対立がドラマを深める)
『男たちの旅路』④-③「車輪の一歩」(人間にとって神とは何か)

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