いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』(集英社)がものすごくおもしろかった。
映像作品の脚本しか書いたことのない私がつい最近、小説を書いたんですけれど、そのような者からすると読めば読むほど興味深さの募る作品でした。
物語は、近未来、東亜細亜紛争が起こって中国らしき大国に占領され、「東端列島」と呼ばれている日本が舞台で、小説家という咎で投獄されている主人公が占領国の「小説禁止令」に全面的に賛同するという内容の「随筆」を書く、というものです。政治犯が書いているものだから当然、検閲されています。
「小説」を徹底批判する「随筆」という態
この「小説」は「小説禁止令に賛同する」という趣旨で書かれた「随筆」なので、徹底して「小説とはいかに曖昧で取るに足らないものか」ということが述べられます。つまり批判的な文学論なんですね。夏目漱石『行人』、中上健次『地の果て 至上の時』などを俎上に載せて、小説の登場人物・作者・読者の関係を暴き立てる。これが正確な批評になっているのかどうかは浅学の私にはわかりません。なるほどなぁ、と思いながら読むしかなかった。
で、次に「過去形の禁止」。この随筆に似せた小説はほとんどすべての文章が現在形で書かれている。「誰それが何した」と過去形で書くと断定的な感じがしてしまう。断定的な感じがするから、ただのフィクションなのに「本当にそのようなことが起こった」かのように感じられる。これは二葉亭四迷のものすごい発明だとまたぞろ文学論が顔を出すんですが、それは小説ならではの欺瞞であると政治犯の筆者は言うんですね。
さらに、近代以降の日本文学の伝統である「私小説」のことが述べられたあと、永井荷風『濹東綺譚』『四畳半襖の下張』などを例に挙げて、小説の作中人物がある架空の小説を見つけてその内容を語るという形式のものがなぜか小説というジャンルには多いと。これも例に挙げられている作品を読んだことがないし、その手のものは確かに読んだことはあるにしろ、小説というものをそれほど読んだことがないので当たっているのがどうかまったくわかりません。でも、インタビューを読むといとうせいこう氏はかなりの小説好きらしく(当たり前ですね)おそらく当たっているのでしょう。
ただ、問題は、この「作中人物がある架空の小説を見つけて~~」というのがこの『小説禁止令に賛同する』という傑作のミソなんですよね。
『月宮殿暴走』という小説を確かに読んだと記すも、検閲官によると「そんな作品はない」となり、そうこうするうちに、この「随筆」が『月宮殿暴走』の作中人物が主人公の「小説」へと変容していく。そのあたりは、クライマックスの少し前から明らかなんですけど、やはり胸がすく展開です。
本当に「随筆」のはずだった
著者のいとうせいこう氏のインタビューを読むと、「最初は本当に随筆のはずだった」というから驚きです。
え、だって、各章の終わりには「軽度処置、中度処罰、投与量加増」なんて検閲官による処置の報告が書かれているから、最初から小説だったように思えますが、これはあとから追加したんですかね?
そのへんのことはよくわかりませんが、「随筆と小説の違いって何なんだろう」という興味で随筆を書こうとしたら結果的に小説になったと。
私はいとうせいこう氏の作品を読むのが初めてなので、全作品のうちフィクションとノンフィクションの割合がどれぐらいとかまったく知らない。だから、氏が小説家なのか随筆家なのかすらわかっていません。ただ、インタビューを読むかぎりではかなりの小説好きと見られ、おそらく随筆よりも小説が好きなのでしょう。だから、随筆と小説の間のぎりぎりのところで随筆に踏みとどまるものを書こうとしたにもかかわらず最終的に小説になってしまった。そこがとてもチャーミングだと思いました。
私の「私小説」
私が書いた私小説は前にも書いたように二人称で書かれています。作者の私が私自身を「おまえ」と名指しし、徹底的に責めぬく内容です。しかし、責めぬきながらも、最後はやはり自分かわいさからか、ちょっとした救いを書いてしまったんですね。
ちょうど、この『小説禁止令に賛同する』のいとうせいこう氏が随筆を書こうと企図しながら最終的に小説になってしまったように、私の作品は私自身を最後まで責め苛むものにしようと企図しながら最後の最後でやさしい言葉をかけてしまった。
「たとえ世界を変えられなくても」
もうかなり前のこと、9.11の直後くらいだったと思いますが、新聞にイタリアの新進気鋭の小説家のインタビューが載っていました。
「書くことで世界は変えられないかもしれない。でも書くことで自分自身が変わることはできる」
まずは自分の足元から、といういい言葉でした。
『小説禁止令に賛同する』はそういう作品のような気がします。小説とはいかにくだらないかを説きながら、実は最初から小説を企図していて、検閲官に喧嘩を売って処刑される主人公。というのは、著者のもともとの意図ではなかった。書いているうちにそうなった。小説を愛する心が作品を変えた。その作品によっていとうせいこう氏が変わったかどうかは知りませんが、変わったと私は信じる。
私の場合、自分を責めぬく内容を意図しながら、最終的に自分をいたわってしまった。これでいいのか、と思いながらも、あれを書く前と後で確実に自分の内側から変わった気がする。たぶん、最後まで自分を責め苛んでいたら、こんなふうに本を読んだり感想を書いたりできなかったでしょう。もしかしたら死んでいたかもしれない。
書くことで自分自身が変わることはできる。ということを身をもって実感しました。これは映像作品の脚本を書いていたときにはまったく味わえなかった境地です。
『小説禁止令に賛同する』という小説は「書かれた」というより「生まれた」。私の作品も生まれた。その作品によって新しい「私」が生まれた。
僭越ながら、いとうせいこう氏の身の上にも同じことが起こっていると推察します。
氏は「これはやっぱり政治小説ですよ」と言っています。
私にとってこの『小説禁止令に賛同する』は、作者の小説への愛が迸り出た「私小説」なんだがなぁ、と思っていましたが、自分が変わることで世界を変えることを希求している点において、やはり「政治小説」なのかもしれない、と思った次第です。
映像作品の脚本しか書いたことのない私がつい最近、小説を書いたんですけれど、そのような者からすると読めば読むほど興味深さの募る作品でした。
物語は、近未来、東亜細亜紛争が起こって中国らしき大国に占領され、「東端列島」と呼ばれている日本が舞台で、小説家という咎で投獄されている主人公が占領国の「小説禁止令」に全面的に賛同するという内容の「随筆」を書く、というものです。政治犯が書いているものだから当然、検閲されています。
「小説」を徹底批判する「随筆」という態
この「小説」は「小説禁止令に賛同する」という趣旨で書かれた「随筆」なので、徹底して「小説とはいかに曖昧で取るに足らないものか」ということが述べられます。つまり批判的な文学論なんですね。夏目漱石『行人』、中上健次『地の果て 至上の時』などを俎上に載せて、小説の登場人物・作者・読者の関係を暴き立てる。これが正確な批評になっているのかどうかは浅学の私にはわかりません。なるほどなぁ、と思いながら読むしかなかった。
で、次に「過去形の禁止」。この随筆に似せた小説はほとんどすべての文章が現在形で書かれている。「誰それが何した」と過去形で書くと断定的な感じがしてしまう。断定的な感じがするから、ただのフィクションなのに「本当にそのようなことが起こった」かのように感じられる。これは二葉亭四迷のものすごい発明だとまたぞろ文学論が顔を出すんですが、それは小説ならではの欺瞞であると政治犯の筆者は言うんですね。
さらに、近代以降の日本文学の伝統である「私小説」のことが述べられたあと、永井荷風『濹東綺譚』『四畳半襖の下張』などを例に挙げて、小説の作中人物がある架空の小説を見つけてその内容を語るという形式のものがなぜか小説というジャンルには多いと。これも例に挙げられている作品を読んだことがないし、その手のものは確かに読んだことはあるにしろ、小説というものをそれほど読んだことがないので当たっているのがどうかまったくわかりません。でも、インタビューを読むといとうせいこう氏はかなりの小説好きらしく(当たり前ですね)おそらく当たっているのでしょう。
ただ、問題は、この「作中人物がある架空の小説を見つけて~~」というのがこの『小説禁止令に賛同する』という傑作のミソなんですよね。
『月宮殿暴走』という小説を確かに読んだと記すも、検閲官によると「そんな作品はない」となり、そうこうするうちに、この「随筆」が『月宮殿暴走』の作中人物が主人公の「小説」へと変容していく。そのあたりは、クライマックスの少し前から明らかなんですけど、やはり胸がすく展開です。
本当に「随筆」のはずだった
著者のいとうせいこう氏のインタビューを読むと、「最初は本当に随筆のはずだった」というから驚きです。
え、だって、各章の終わりには「軽度処置、中度処罰、投与量加増」なんて検閲官による処置の報告が書かれているから、最初から小説だったように思えますが、これはあとから追加したんですかね?
そのへんのことはよくわかりませんが、「随筆と小説の違いって何なんだろう」という興味で随筆を書こうとしたら結果的に小説になったと。
私はいとうせいこう氏の作品を読むのが初めてなので、全作品のうちフィクションとノンフィクションの割合がどれぐらいとかまったく知らない。だから、氏が小説家なのか随筆家なのかすらわかっていません。ただ、インタビューを読むかぎりではかなりの小説好きと見られ、おそらく随筆よりも小説が好きなのでしょう。だから、随筆と小説の間のぎりぎりのところで随筆に踏みとどまるものを書こうとしたにもかかわらず最終的に小説になってしまった。そこがとてもチャーミングだと思いました。
私の「私小説」
私が書いた私小説は前にも書いたように二人称で書かれています。作者の私が私自身を「おまえ」と名指しし、徹底的に責めぬく内容です。しかし、責めぬきながらも、最後はやはり自分かわいさからか、ちょっとした救いを書いてしまったんですね。
ちょうど、この『小説禁止令に賛同する』のいとうせいこう氏が随筆を書こうと企図しながら最終的に小説になってしまったように、私の作品は私自身を最後まで責め苛むものにしようと企図しながら最後の最後でやさしい言葉をかけてしまった。
「たとえ世界を変えられなくても」
もうかなり前のこと、9.11の直後くらいだったと思いますが、新聞にイタリアの新進気鋭の小説家のインタビューが載っていました。
「書くことで世界は変えられないかもしれない。でも書くことで自分自身が変わることはできる」
まずは自分の足元から、といういい言葉でした。
『小説禁止令に賛同する』はそういう作品のような気がします。小説とはいかにくだらないかを説きながら、実は最初から小説を企図していて、検閲官に喧嘩を売って処刑される主人公。というのは、著者のもともとの意図ではなかった。書いているうちにそうなった。小説を愛する心が作品を変えた。その作品によっていとうせいこう氏が変わったかどうかは知りませんが、変わったと私は信じる。
私の場合、自分を責めぬく内容を意図しながら、最終的に自分をいたわってしまった。これでいいのか、と思いながらも、あれを書く前と後で確実に自分の内側から変わった気がする。たぶん、最後まで自分を責め苛んでいたら、こんなふうに本を読んだり感想を書いたりできなかったでしょう。もしかしたら死んでいたかもしれない。
書くことで自分自身が変わることはできる。ということを身をもって実感しました。これは映像作品の脚本を書いていたときにはまったく味わえなかった境地です。
『小説禁止令に賛同する』という小説は「書かれた」というより「生まれた」。私の作品も生まれた。その作品によって新しい「私」が生まれた。
僭越ながら、いとうせいこう氏の身の上にも同じことが起こっていると推察します。
氏は「これはやっぱり政治小説ですよ」と言っています。
私にとってこの『小説禁止令に賛同する』は、作者の小説への愛が迸り出た「私小説」なんだがなぁ、と思っていましたが、自分が変わることで世界を変えることを希求している点において、やはり「政治小説」なのかもしれない、と思った次第です。
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