『血を吸うカメラ』(1960、イギリス)
脚本:レオ・マークス
監督:マイケル・パウエル
出演:カール・ハインツ・ベーム、モイラ・シアラー、アンナ・マッセイ、マキシン・オードリー、マイケル・パウエル
公開当時のイギリスが保守的な気分が高まっていたこともあり、変態殺人鬼を描いたこの画期的傑作は大非難の対象になり、以後、監督のマイケル・パウエルは映画を撮れなくなったという曰くつきの映画です。
マーティン・スコセッシが『スコセッシ・オン・スコセッシ』という本で、デビッド・クローネンバーグが『クローネンバーグ・オン・クローネンバーグ』という本で激賞して再評価の機運が高まりました。
で、日本でもDVDや配信でも見れるわけですが、再見してみると、「カメラの暴力性」を考察した稀有な作品だと、やはり唸りました。
物語は、女性にナイフを突きつけ恐怖に歪む表情を撮影する男が、最終的に自分自身にナイフを突きつけ恐怖に歪む自分自身を撮影しながら自死するというもの。
映画の撮影現場は少しだけ知っていますし、自主映画では俳優を務めたこともあるので、「カメラの暴力性」には自覚的であったつもりですが、この『血を吸うカメラ』を改めてみると、本当に人を殺すほどの暴力性を孕んでいたんだな、とゾッとしました。
いきなりカメラを向けられると、まるで銃口を向けられたかのような、というと大げさですが、ある程度の恐怖を感じますよね。あれはカメラが暴力性を孕んでいるからです。
「撮る/撮られる」「見る/見られる」という権力構造あるいは支配構造をこの『血を吸うカメラ』はよく描いているといえるでしょう。もう何年も前の話ですが、アラーキーがモデルから訴えられたり、ベルトルッチが女優から訴えられたり、というのは、この権力構造・支配構造が根源だと思われます。
さまざまな工夫が施された映画ですが、一番のポイントは「盲人の目」だと思います。
その前に
なぜ主人公がそのような凶行をするように至ったかというと、幼い頃に精神科医だった父親が恐怖について研究するために、息子や妻など家族みんなの部屋に盗聴器を仕掛けて完全なる支配者として君臨していた。主人公は眠っているときに大きなトカゲをベッドに投げられ泣き叫ぶところを8ミリカメラで撮られたりするなど、かなりひどい心の傷を負いました。
彼は被支配者として未曽有の恐怖を感じさせられたために、長じてからは自分が支配者になることで傷を癒そうとしたのでしょう。
ところで、私は映画を撮ったことはありませんが、撮られたことはあります。
前述のとおり、友人が監督する自主製作映画で俳優として出演しました。そのとき、監督があまり演技指導をしない主義で、「こうしたらどうか」と言うと、いつも「それでいい」という返事しか返ってこなかった。私はそのことがとても不満でしたが、津川雅彦さんも何かの番組で言っていました。「役者は演出されたいんだ」と。もっとああしろこうしろと言われることが快感であると。
だから撮る者は支配者なのだから当然、撮影行為そのものに快感を感じますよね。でも、撮られる者も快感を感じているはずなんですよ。
『血を吸うカメラ』の主人公は最後、「恐怖は喜びなんだ」と叫んで自分の首を刺したあと、幼い頃の自分の声を思い出します。「おやすみパパ、手を握って」。
あれだけ恐怖を感じさせられた相手に手を握られると安心して眠りに落ちる。支配者と被支配者の間には何か甘美なものがあるのではないか。監督に何度もダメ出しを食らうとうれしくなる津川さんのような役者も同じ甘美さに酔っているのだと思います。アラーキーやベルトルッチが被写体の人物から訴えられたのは、この「共依存」の関係だったからじゃないでしょうか。
まさにこの共依存こそ「写真」や「映画」に潜む構造的な問題なんじゃないか。
一方的に撮られ、撮る者だけが快感を感じるのなら作品を残すことなど不可能です。しかし撮られる者も快感を感じれば数多の作品が作られる。おそらく非凡な写真家・映画監督というのはモデル・俳優にそのような「撮られることの快感」を感じさせることに長けているのでしょう。
だから、写真芸術というものがあるかぎり、この「撮る/撮られる」の構造から抜け出ることは不可能です。
「撮る/撮られる」という関係性から抜け出る手段として「自撮り」がある、とは思うんですが、『血を吸うカメラ』のことを考えるとちょいと疑問です。『血を吸うカメラ』には、「撮る/撮られる」という権力構造とは別の仕掛けもあるからです。
自分自身に見られる恐怖
この画像で最も大事なのはカメラでも三脚に仕込まれたナイフでもありません。カメラの横に大きな円いものがありますね。これは実は鏡なのです。被害者は恐怖で歪む自分自身の顔を見ながら、逆にいえば恐怖する自分に見つめられながら死ぬわけです。
殺人鬼である主人公が回すカメラに見つめられる、そういう「撮る/撮られる」「見る/見られる」の関係だけでないところが肝要です。撮られている・見られている自分が「(自分自身を)見る/(自分自身に)見られる」という二重構造になっているわけです。
自撮りでは、自分で自分を見ながら撮るわけですよね。誰か別の人間には見られていなくとも、自分にだけは見られているわけです。それこそ「写真」というものの本質です。
別の人間に撮られようと、自分で自分を撮ろうと、「自分はいま撮られている」という感覚からは絶対に逃れられない。
盲人に見られるということ
『血を吸うカメラ』にはもうひとつ仕掛けがありまして、それはヒロインの母親が「盲人」であることです。
盲人ならではの勘の鋭さで、主人公が何かよからぬことをしていると見ぬくんですが、見ぬかれた主人公は何やら不気味で盲人の目を見られない。その目は何も見えていないのに、見えない目に恐怖する。
これはもしかしたら、主人公が父親に盗聴されていたことから来るものなのかもしれません。父親の目がなくても生活の一部始終を監視されていたのだから。フーコーの言うパノプティコンのようなものでしょうか。それを盲人の目に感じているのか。
いずれにしても、見えない目にも人は「見られている」という恐怖を感じる生き物だということが肝要です。
この盲人の目というのは、写真芸術で言えば「鑑賞者」ですよね。撮影現場にその「目」はないけれど、いずれ被写体を見るであろう「目」。パノプティコンのようにモデルを支配するはずです。もしかしたら自撮りであれば撮る者がいないぶんよけいにその「見えない目」を意識してしまうかもしれない。いや、意識しなければならない。なぜか。
「血を吸わないカメラ」は存在するか
展覧会などでお披露目される写真にしろ、SNSに載せるための写真にしろ、誰かに見てもらう以上は「撮る/撮られる」の両方を自分がやる、つまり写真芸術にまとわりつく支配構造から自由になったとしても、鑑賞者の「目」が最終的な権力として立ちはだかります。
撮る者の支配からは脱することは可能でしょう。でも、それが広く見てもらう芸術写真・商業写真である以上、見る者の支配からは逃れられない。見てもらわないかぎりは作品として成立しないのだから。それが芸術写真であれエロ写真であれ、誰かに見てもらうために写真を撮るとき、すべてのカメラは血を吸うカメラになるのだと思います。
「血を吸わないカメラ」というものがもしあるとすれば、撮った写真を自分だけで楽しむ、あるいは家族だけで楽しむ記念写真を撮るときだけではないでしょうか。
ただその場合でも、その写真を共有した人物がネットに上げてしまえば永久に鑑賞者の目に晒されます。つまり、撮る時点では血を吸わないカメラで撮った写真でも、事後的に血を吸うカメラで撮った写真に変容するということです。リベンジポルノなんてその最たる例でしょう。
だから、ネット全盛の現代において「すべてのカメラは血を吸うカメラである」と言っていいと思います。
脚本:レオ・マークス
監督:マイケル・パウエル
出演:カール・ハインツ・ベーム、モイラ・シアラー、アンナ・マッセイ、マキシン・オードリー、マイケル・パウエル
公開当時のイギリスが保守的な気分が高まっていたこともあり、変態殺人鬼を描いたこの画期的傑作は大非難の対象になり、以後、監督のマイケル・パウエルは映画を撮れなくなったという曰くつきの映画です。
マーティン・スコセッシが『スコセッシ・オン・スコセッシ』という本で、デビッド・クローネンバーグが『クローネンバーグ・オン・クローネンバーグ』という本で激賞して再評価の機運が高まりました。
で、日本でもDVDや配信でも見れるわけですが、再見してみると、「カメラの暴力性」を考察した稀有な作品だと、やはり唸りました。
物語は、女性にナイフを突きつけ恐怖に歪む表情を撮影する男が、最終的に自分自身にナイフを突きつけ恐怖に歪む自分自身を撮影しながら自死するというもの。
映画の撮影現場は少しだけ知っていますし、自主映画では俳優を務めたこともあるので、「カメラの暴力性」には自覚的であったつもりですが、この『血を吸うカメラ』を改めてみると、本当に人を殺すほどの暴力性を孕んでいたんだな、とゾッとしました。
いきなりカメラを向けられると、まるで銃口を向けられたかのような、というと大げさですが、ある程度の恐怖を感じますよね。あれはカメラが暴力性を孕んでいるからです。
「撮る/撮られる」「見る/見られる」という権力構造あるいは支配構造をこの『血を吸うカメラ』はよく描いているといえるでしょう。もう何年も前の話ですが、アラーキーがモデルから訴えられたり、ベルトルッチが女優から訴えられたり、というのは、この権力構造・支配構造が根源だと思われます。
さまざまな工夫が施された映画ですが、一番のポイントは「盲人の目」だと思います。
その前に
なぜ主人公がそのような凶行をするように至ったかというと、幼い頃に精神科医だった父親が恐怖について研究するために、息子や妻など家族みんなの部屋に盗聴器を仕掛けて完全なる支配者として君臨していた。主人公は眠っているときに大きなトカゲをベッドに投げられ泣き叫ぶところを8ミリカメラで撮られたりするなど、かなりひどい心の傷を負いました。
彼は被支配者として未曽有の恐怖を感じさせられたために、長じてからは自分が支配者になることで傷を癒そうとしたのでしょう。
ところで、私は映画を撮ったことはありませんが、撮られたことはあります。
前述のとおり、友人が監督する自主製作映画で俳優として出演しました。そのとき、監督があまり演技指導をしない主義で、「こうしたらどうか」と言うと、いつも「それでいい」という返事しか返ってこなかった。私はそのことがとても不満でしたが、津川雅彦さんも何かの番組で言っていました。「役者は演出されたいんだ」と。もっとああしろこうしろと言われることが快感であると。
だから撮る者は支配者なのだから当然、撮影行為そのものに快感を感じますよね。でも、撮られる者も快感を感じているはずなんですよ。
『血を吸うカメラ』の主人公は最後、「恐怖は喜びなんだ」と叫んで自分の首を刺したあと、幼い頃の自分の声を思い出します。「おやすみパパ、手を握って」。
あれだけ恐怖を感じさせられた相手に手を握られると安心して眠りに落ちる。支配者と被支配者の間には何か甘美なものがあるのではないか。監督に何度もダメ出しを食らうとうれしくなる津川さんのような役者も同じ甘美さに酔っているのだと思います。アラーキーやベルトルッチが被写体の人物から訴えられたのは、この「共依存」の関係だったからじゃないでしょうか。
まさにこの共依存こそ「写真」や「映画」に潜む構造的な問題なんじゃないか。
一方的に撮られ、撮る者だけが快感を感じるのなら作品を残すことなど不可能です。しかし撮られる者も快感を感じれば数多の作品が作られる。おそらく非凡な写真家・映画監督というのはモデル・俳優にそのような「撮られることの快感」を感じさせることに長けているのでしょう。
だから、写真芸術というものがあるかぎり、この「撮る/撮られる」の構造から抜け出ることは不可能です。
「撮る/撮られる」という関係性から抜け出る手段として「自撮り」がある、とは思うんですが、『血を吸うカメラ』のことを考えるとちょいと疑問です。『血を吸うカメラ』には、「撮る/撮られる」という権力構造とは別の仕掛けもあるからです。
自分自身に見られる恐怖
この画像で最も大事なのはカメラでも三脚に仕込まれたナイフでもありません。カメラの横に大きな円いものがありますね。これは実は鏡なのです。被害者は恐怖で歪む自分自身の顔を見ながら、逆にいえば恐怖する自分に見つめられながら死ぬわけです。
殺人鬼である主人公が回すカメラに見つめられる、そういう「撮る/撮られる」「見る/見られる」の関係だけでないところが肝要です。撮られている・見られている自分が「(自分自身を)見る/(自分自身に)見られる」という二重構造になっているわけです。
自撮りでは、自分で自分を見ながら撮るわけですよね。誰か別の人間には見られていなくとも、自分にだけは見られているわけです。それこそ「写真」というものの本質です。
別の人間に撮られようと、自分で自分を撮ろうと、「自分はいま撮られている」という感覚からは絶対に逃れられない。
盲人に見られるということ
『血を吸うカメラ』にはもうひとつ仕掛けがありまして、それはヒロインの母親が「盲人」であることです。
盲人ならではの勘の鋭さで、主人公が何かよからぬことをしていると見ぬくんですが、見ぬかれた主人公は何やら不気味で盲人の目を見られない。その目は何も見えていないのに、見えない目に恐怖する。
これはもしかしたら、主人公が父親に盗聴されていたことから来るものなのかもしれません。父親の目がなくても生活の一部始終を監視されていたのだから。フーコーの言うパノプティコンのようなものでしょうか。それを盲人の目に感じているのか。
いずれにしても、見えない目にも人は「見られている」という恐怖を感じる生き物だということが肝要です。
この盲人の目というのは、写真芸術で言えば「鑑賞者」ですよね。撮影現場にその「目」はないけれど、いずれ被写体を見るであろう「目」。パノプティコンのようにモデルを支配するはずです。もしかしたら自撮りであれば撮る者がいないぶんよけいにその「見えない目」を意識してしまうかもしれない。いや、意識しなければならない。なぜか。
「血を吸わないカメラ」は存在するか
展覧会などでお披露目される写真にしろ、SNSに載せるための写真にしろ、誰かに見てもらう以上は「撮る/撮られる」の両方を自分がやる、つまり写真芸術にまとわりつく支配構造から自由になったとしても、鑑賞者の「目」が最終的な権力として立ちはだかります。
撮る者の支配からは脱することは可能でしょう。でも、それが広く見てもらう芸術写真・商業写真である以上、見る者の支配からは逃れられない。見てもらわないかぎりは作品として成立しないのだから。それが芸術写真であれエロ写真であれ、誰かに見てもらうために写真を撮るとき、すべてのカメラは血を吸うカメラになるのだと思います。
「血を吸わないカメラ」というものがもしあるとすれば、撮った写真を自分だけで楽しむ、あるいは家族だけで楽しむ記念写真を撮るときだけではないでしょうか。
ただその場合でも、その写真を共有した人物がネットに上げてしまえば永久に鑑賞者の目に晒されます。つまり、撮る時点では血を吸わないカメラで撮った写真でも、事後的に血を吸うカメラで撮った写真に変容するということです。リベンジポルノなんてその最たる例でしょう。
だから、ネット全盛の現代において「すべてのカメラは血を吸うカメラである」と言っていいと思います。
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