『ガキの使いやあらへんで』で浜田がエディ・マーフィの物まねと称して顔面を黒塗りしていた問題。世界中で非難の嵐なのに今日の『ワイドナショー』でも、
「差別の意図はなかった」
「お笑いがどんどんつまらなくなる」
などの頓珍漢なコメントばかりだったのが残念です。
差別を考えるときに大事なのは、「宿命」と「運命」ということだと思うんですよね。
この二つがどう違うかについては、私はいつも伝説の雀鬼・桜井章一さんの定義を参考にしているんですが、
「宿命」とは「本人の意志では変えられないこと」
「運命」とは「本人の意志で変えられること」
ということになります。
だから、自分の親がどういう人間とか、どこで生まれたとか、自分の名前とか、性別、遺伝的な疾患、そして肌の色などは「宿命」です。
これに対して、同じ名前でもハンドルネームやペンネームは「運命」の範疇ですし、どういう仕事に就いて、どこに住んで、誰と結婚するか、などもすべて「運命」です。
差別というのは、「宿命」を茶化すことだと思うんですよ。
エディ・マーフィの物まねと称して顔を黒く塗る。差別の意図はなかったというのはおそらく嘘ではないのでしょう。でも、あれを見た黒人たちは不快になる。それは浜田が黒い肌に生まれた人の「宿命」を背負ってはいないからです。撮影が終わればすぐに元の肌に戻せるのだから。
もう10年近く前、『トロピックサンダー/史上最大の作戦』という映画がありました。ロバート・ダウニーjrが演じた狂気の役者は、黒人の役を演じるにあたり、黒塗りではなく手術によって本当に肌を黒くしてしまいました。
この映画が『ガキ使』のような非難を浴びなかったのは、黒塗りじゃなかったからだと思います。そりゃま、実際は黒く塗ってるだけですけども、あくまでもお話の中では肌そのものを黒くした、つまり、黒人の宿命を背負った役どころです。
手術で変えられたということは手術で元に戻せるということでもありますが、単に肌を黒く塗るのとでは覚悟のあり方にあまりの差があります。
見た目を黒人に似せるなら、黒人と同じ「宿命」を引き受けるぐらいの覚悟をせねばならない。
黒人たちが肌の色を理由に理不尽な扱いを受け続けているのは「宿命」の範疇の問題ですが、今回、浜田らが非難されたのはただの「運命」の問題です。
運命ならば変えることができるのだから、これを機に考え方を改めたほうがいいと思います。
コメント
コメント一覧 (1)
古くは「ちびくろさんぼ」という絵本が、黒人から一切の批判がなかったにも関わらず部外者の批判により発禁に追い込まれた事例や、最近では白人モデルが着物を着用して撮った写真に対し、日本からの批判が無かったにも関わらず米国国内で「差別である」との声が高まり謝罪騒ぎになる例がありました。
私自身がそれを強く意識する様になった切っ掛けは、とある新聞投稿に「毛深いは差別発言」なる論説を見かけ、そこからにじみ出る「毛深い人間はそれに触れられると不快であろう」という、当の本人が気にしてもいない身体的特徴に対する余りにも身勝手で失礼な思いこみに対し、逆に不愉快に思った経験からです。
今回の件に対しても当事者である黒人やエディ・マーフィ当人が不快感を表明しない限り、外野がこれを差別だと宣う事が当事者に対し逆に失礼な言動であることを批判者は自覚しなければならないと思います。
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