町山智浩さんの最近のツイートを読んで、これは言っておかなくては、と使命感に駆られたため筆を執りました。(こういうことを書くと、この記事 のように町山信者が難癖をつけてくるのでしょうが、云わずにおれないので)
そのツイートとは、
「クリストファー・ノーランは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』みたいな全編クライマックスの映画を作りたくて『ダンケルク』を作ったらしい。100年以上映画界を支配してきた三幕構成の終わりの始まりだろうか」
というような意味のもので、まず『怒りのデス・ロード』も『ダンケルク』も少しも楽しめなかった当方としてはこの2本の映画が映画を改革していくとは露ほども思えないのですが、それはともかく、町山さんのツイートを読んですぐ思い出したのが、元キネマ旬報編集長の白井佳夫さんが北野武『HANA-BI』に関しての発言でした。

その発言とは、
「『HANA-BI』をきっかけに映画は起承転結の呪縛から逃れないといけない。これからの映画で起承転結に則っている映画は『古い映画』と断じていいと思う」
みたいな意味のことでした。
『HANA-BI』って時間軸をかなりシャッフルしてるじゃないですか。薬師寺が発砲する場面など何回も出てくるし、それでこういう発言になったのでしょう。
が、起承転結の呪縛から逃れるべきだ、という主張にはまったく乗れませんでした。
だって、いくら時間軸をいじって行ったり来たりしたって、プロットは常に前進する、正確にはらせん状に発展していくものだからです。
ノーランもかつて『メメント』という時間軸をいじりまくった映画を作っています。未来へ向かって流れる時間と、過去へ向かって流れる時間を織り交ぜた構成でしたが、プロットは常にらせん状に前進していました。つまり、起承転結に則った作劇だったのです。

どうあがいたって、このような構成からは逃れようがないのです。
三幕構成だって同じことです。

新藤兼人さんがいつも言っていました。
「映画にかぎらず、この世のあらゆる物事には『始まり』と『終わり』があって、そしてその二つをつなぐ『真ん中』がある。だからどんな物語も三つに分けることができる」
確かに、画像のように「第一幕が状況設定でなければならない」というのはちょっと古いかな、とは思います。いきなり物語の核心に踏み込んでいくのが現代風でしょう。映画館ではなく家のテレビで映画を見る人が増えているいま、せっかちに語らないと見るのをやめられてしまいます。
しかし、それでも、始まり・真ん中・終わりという三幕構成は揺るぎません。なぜならそれがこの世の真理だからです。始まりがない物語もなければ、終わりがない物語もないし、始まってすぐ終わる物語もない以上、始まり・真ん中・終わりという構成から抜け出ることはできません。
全編クライマックス?
それは「クライマックスがない」のと同じでは?

そのツイートとは、
「クリストファー・ノーランは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』みたいな全編クライマックスの映画を作りたくて『ダンケルク』を作ったらしい。100年以上映画界を支配してきた三幕構成の終わりの始まりだろうか」
というような意味のもので、まず『怒りのデス・ロード』も『ダンケルク』も少しも楽しめなかった当方としてはこの2本の映画が映画を改革していくとは露ほども思えないのですが、それはともかく、町山さんのツイートを読んですぐ思い出したのが、元キネマ旬報編集長の白井佳夫さんが北野武『HANA-BI』に関しての発言でした。

その発言とは、
「『HANA-BI』をきっかけに映画は起承転結の呪縛から逃れないといけない。これからの映画で起承転結に則っている映画は『古い映画』と断じていいと思う」
みたいな意味のことでした。
『HANA-BI』って時間軸をかなりシャッフルしてるじゃないですか。薬師寺が発砲する場面など何回も出てくるし、それでこういう発言になったのでしょう。
が、起承転結の呪縛から逃れるべきだ、という主張にはまったく乗れませんでした。
だって、いくら時間軸をいじって行ったり来たりしたって、プロットは常に前進する、正確にはらせん状に発展していくものだからです。
ノーランもかつて『メメント』という時間軸をいじりまくった映画を作っています。未来へ向かって流れる時間と、過去へ向かって流れる時間を織り交ぜた構成でしたが、プロットは常にらせん状に前進していました。つまり、起承転結に則った作劇だったのです。

どうあがいたって、このような構成からは逃れようがないのです。
三幕構成だって同じことです。

新藤兼人さんがいつも言っていました。
「映画にかぎらず、この世のあらゆる物事には『始まり』と『終わり』があって、そしてその二つをつなぐ『真ん中』がある。だからどんな物語も三つに分けることができる」
確かに、画像のように「第一幕が状況設定でなければならない」というのはちょっと古いかな、とは思います。いきなり物語の核心に踏み込んでいくのが現代風でしょう。映画館ではなく家のテレビで映画を見る人が増えているいま、せっかちに語らないと見るのをやめられてしまいます。
しかし、それでも、始まり・真ん中・終わりという三幕構成は揺るぎません。なぜならそれがこの世の真理だからです。始まりがない物語もなければ、終わりがない物語もないし、始まってすぐ終わる物語もない以上、始まり・真ん中・終わりという構成から抜け出ることはできません。
全編クライマックス?
それは「クライマックスがない」のと同じでは?


コメント
コメント一覧 (2)
20代の頃は「好きな映画は?」と訊かれたら真っ先に挙げてましたが、いまは出てきませんね。何度も見るうちに評価が下がったようです。『グッドフェローズ』のほうがよっぽど好きです。
王道の否定は日米問わずカルチャーにおける現代の潮流だと思います。
以前私はこちらでシンゴジラをべた褒めしましたよね。しかしながら先日の地上波放送においての2度目の視聴では1度目ほどの興奮は得られませんでした。シンゴジはテンポはいいですし話も練られてるんですがなんというかリピートに耐えられるほどの深みもないんですよね。
震災を経た日本のメタファー、時事ネタ映画としてはよくできていますが逆に言うとそれしかない。だから一度オチを知ってしまうと気持ちが盛り上がらないんですよ。肌に合わない映画も最低二回はみるべき、初見とそれ以降では感想が変わるかもしれないからと仰っていましたが私はまさにそれをシンゴジラで味合わされました。
三度目の視聴があるかはわかりませんがあったらその時の感想が気になりますね。
まあでも物語は王道が一番です。
全編クライマックスの映画なんてかえって盛りあがりに欠けるでしょう。
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