内田樹先生の『日本の覚醒のために』という講演集を読みました。
相変わらずの内田節炸裂ですが、他の本で読んだことばかりだったので読み物としてそんなに面白いものではなかったです。
ただ、ひとつ新しくなるほどと思ったのは、「いまの日本は数値しか価値基準がなくなってしまった」という箇所で、その好個の例として「国会での審議時間」を挙げてらっしゃいました。
「今回成立した法案では〇時間の審議しかなされなかった。消費税導入のときは△△時間、他の法案では☓☓時間もあったのに、という批判が成立してしまうことに危機を感じます。国会での審議が十分かどうかをただ何時間という数値に置換できるという考え方には同意できません」
という言い分で、なるほど、確かにそうだな、と思います。
おととい、バルサからパリ・サンジェルマンへの移籍が決まったネイマールに関しても、移籍金がこれまでの最高額の2倍以上だとか、妥当な金額かばかりが議論されています。
過去の移籍金トップ10なる記事もあって、移籍金額だけで序列をつけている。そんなことにどれほどの意味があるのか私にはさっぱりわかりません。
金額のほかに、この移籍劇には「10番」をめぐる思惑も背景にあるんですよね。バルサの10番はメッシだから少なくとも彼が引退するまで10番を身に纏うことは不可能。でPSGと契約して念願の10番を手に入れたと。
サッカー選手にとって10番は特別な番号ですけど、今季から新しくレアルの10番に選ばれたモドリッチがいみじくも言っています。「背番号がプレーするわけではない」。
でもネイマールはあくまでも10番という数字にこだわってしまったのですね。そしておそらくバルサ時代の2倍と言われる年俸にも。
いま働いているコールセンターでも、評価の対象はもっぱら「通話時間」と「後処理時間」そして「保留時間」のみ。
つまり、すべて短ければいい、そして「取った件数」が多ければいい。
しかし、なかには独り暮らしで話し相手がおらず、とにかく話を聞いてほしくてたまらないお婆さんもいれば、情理を尽くして自分の言うことをわかってもらいたい、というお客さんもいます。
そういう人の話に耳を傾けたら通話時間は長くなるし、当然取る件数は減ります。
じゃあ、「聞くべき情報は聞き取りましたので」と電話を切ってもいいの? 違うでしょ。お客さんがどれぐらい満足したか、数値に置換できないことは「なかったこと」にしてしまうなんて、どーかしてるぜ! としか思えません。
別にこの事件だけじゃないですが、障害者を「役に立たないから」という理由で迫害しようとする人たちの「役に立つ」という概念はおそらく「数値化できる」ということなのでしょうね。
健常者よりも仕事の「スピード」が遅い。
稼ぐ「お金」が少ない。
そのくせ「医療費」がかかるうえに「自己負担率」は低い。
そのうえ、電車やバスが「無料」になるのは許せない。
数値化できる、ということは普遍化できるということで、先日、クローズアップ現代プラスで森達也監督が言ってましたが、「どんな事件にも特殊性と普遍性がある」わけですが、森さんは世間ではこの事件の特殊性にばかり目が行っているが普遍性にも目を向けようよ、という主旨の発言でした。
しかし、障害者を「数値化」して差別しようとする人たちは、決して一人一人の「特殊性」を見ていない、ということでもあると思う。
それは、お客さん一人一人の特殊性をまったく見ずに、一週間でその人が受けた電話の本数、通話時間の総和から平均値を割り出して、それだけを評価の対象にするコールセンターと何も違いはありません。
相模原障害者大量虐殺事件は、そういうところにも根っこがある気がします。
仄聞するところによると、最近は料理のレシピで「食塩を適量入れる」とか「砂糖少々」などと表現するとクレームがつくらしいです。大さじ一杯、小さじ一杯、5mlとか「数値」で説明してもらわないと料理できないんですって。
まさに「どーかしてるぜ!」な世の中ですな。
相変わらずの内田節炸裂ですが、他の本で読んだことばかりだったので読み物としてそんなに面白いものではなかったです。
ただ、ひとつ新しくなるほどと思ったのは、「いまの日本は数値しか価値基準がなくなってしまった」という箇所で、その好個の例として「国会での審議時間」を挙げてらっしゃいました。
「今回成立した法案では〇時間の審議しかなされなかった。消費税導入のときは△△時間、他の法案では☓☓時間もあったのに、という批判が成立してしまうことに危機を感じます。国会での審議が十分かどうかをただ何時間という数値に置換できるという考え方には同意できません」
という言い分で、なるほど、確かにそうだな、と思います。
おととい、バルサからパリ・サンジェルマンへの移籍が決まったネイマールに関しても、移籍金がこれまでの最高額の2倍以上だとか、妥当な金額かばかりが議論されています。
過去の移籍金トップ10なる記事もあって、移籍金額だけで序列をつけている。そんなことにどれほどの意味があるのか私にはさっぱりわかりません。
金額のほかに、この移籍劇には「10番」をめぐる思惑も背景にあるんですよね。バルサの10番はメッシだから少なくとも彼が引退するまで10番を身に纏うことは不可能。でPSGと契約して念願の10番を手に入れたと。
サッカー選手にとって10番は特別な番号ですけど、今季から新しくレアルの10番に選ばれたモドリッチがいみじくも言っています。「背番号がプレーするわけではない」。
でもネイマールはあくまでも10番という数字にこだわってしまったのですね。そしておそらくバルサ時代の2倍と言われる年俸にも。
いま働いているコールセンターでも、評価の対象はもっぱら「通話時間」と「後処理時間」そして「保留時間」のみ。
つまり、すべて短ければいい、そして「取った件数」が多ければいい。
しかし、なかには独り暮らしで話し相手がおらず、とにかく話を聞いてほしくてたまらないお婆さんもいれば、情理を尽くして自分の言うことをわかってもらいたい、というお客さんもいます。
そういう人の話に耳を傾けたら通話時間は長くなるし、当然取る件数は減ります。
じゃあ、「聞くべき情報は聞き取りましたので」と電話を切ってもいいの? 違うでしょ。お客さんがどれぐらい満足したか、数値に置換できないことは「なかったこと」にしてしまうなんて、どーかしてるぜ! としか思えません。
別にこの事件だけじゃないですが、障害者を「役に立たないから」という理由で迫害しようとする人たちの「役に立つ」という概念はおそらく「数値化できる」ということなのでしょうね。
健常者よりも仕事の「スピード」が遅い。
稼ぐ「お金」が少ない。
そのくせ「医療費」がかかるうえに「自己負担率」は低い。
そのうえ、電車やバスが「無料」になるのは許せない。
数値化できる、ということは普遍化できるということで、先日、クローズアップ現代プラスで森達也監督が言ってましたが、「どんな事件にも特殊性と普遍性がある」わけですが、森さんは世間ではこの事件の特殊性にばかり目が行っているが普遍性にも目を向けようよ、という主旨の発言でした。
しかし、障害者を「数値化」して差別しようとする人たちは、決して一人一人の「特殊性」を見ていない、ということでもあると思う。
それは、お客さん一人一人の特殊性をまったく見ずに、一週間でその人が受けた電話の本数、通話時間の総和から平均値を割り出して、それだけを評価の対象にするコールセンターと何も違いはありません。
相模原障害者大量虐殺事件は、そういうところにも根っこがある気がします。
仄聞するところによると、最近は料理のレシピで「食塩を適量入れる」とか「砂糖少々」などと表現するとクレームがつくらしいです。大さじ一杯、小さじ一杯、5mlとか「数値」で説明してもらわないと料理できないんですって。
まさに「どーかしてるぜ!」な世の中ですな。
コメント
コメント一覧 (4)
AIが仕事を奪うかどうかについては業種にもよるでしょうね。デイトレードの世界では既にAIによる取引が主流だといいます。証券取引所などにおいても段々人の手からAIへと移り変わりつつあるようです。ですから少なくとも「数値」をメインとした仕事はいずれ機械が完全に追いぬくと思います。
自動車についてですがこれも今自動運転技術の開発が盛んですよね。信頼性についてはまだまだ発展途上でしょうし今すぐ実社会に配備できるような代物ではないでしょうが先々においてはいずれ日常にも顔を出してくることになるのではないでしょうか?
するとまず真っ先にバスはタクシーに先駆けてAIに置き換わる可能性が高いです。
タクシーに先駆けてというのはタクシーは客の数だけ目的地がありますからその辺をAIがどこまで対応できるかという課題がありそうですがバスは停まる場所が決まっていますからAIの導入は比較的容易であろうという考えに基づくものです。まあそれから自動運転の車に乗りたくないというブレッソンさんの主張ですが同様の考えを持つ方はたくさんいると思います。ただ一方でまったく躊躇いがないという方もいることでしょう。問題は最終的にどちらのタイプの人間の比率が上回るかですね。
ちなみに私はどちらよりの人間なのか自分でもわかりません。実際にそうなってからじゃないとなんとも言えないです。
あ、そうそうロボット化する人間というテーマにご興味がおありなら石黒浩という学者について調べてみることをお勧めします。
この方は文字通りの意味で人間はロボット化していくという考えをもたれており人間社会の行き着く先に一つの結論を出してらっしゃいます。調べて損はしないと思いますよ。
私にはどうもそうは思えないんですよね。
いや、データ入力とかそういう機械的な仕事かつ客商売じゃなければAIが奪い取るでしょう。でも例えばタクシーの運転手とかは私はかなり懐疑的です。機械が運転するタクシーに乗りたいですか? 私は絶対いやです。そういう人まだまだたくさんいると思いますよ。
それに、私は人間がそこまで愚かだとは思っていません。だからしつこく言い続けるつもりです。
おそらくこうした風潮は今しばらく続くでしょう。
ただ永遠には続かないと思います。
何故そう思うかといいますとまず今の時代ロボットや人工知能といった分野が発達していますがそれがこのまま続くといずれは多くの仕事が人間からそのロボットやAIに取って変わられることになるはずです。
そうするとどうなるか?人間は雇用を失うということになるわけですね。雇用が失われるということになれば今の効率優先という価値観のもと働いてきた労働者世代は当然その価値観に揺らぎをかんじることになるでしょう。ブレッソンさんは人間がロボット化している社会と言われていますが人間はいくらロボットになりたくとも結局は人間ですからそこに本物のロボットが現れればロボット人間は本物との競争に敗れることになります。
恐らく現労働者世代はそうなったとき初めて人間とは何か?ということを真剣に考えると気が来るんだと思います。
逆に言うとそういう日がやってこない限りは外野がどう騒ごうと今の価値観は揺るぐことはないでしょう。
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