『僕等がいた』
『心が叫びたがってるんだ。』
『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』
『黒崎君の言いなりになんてならない』
『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』
『兄に愛されすぎて困ってます』

これは最近公開された日本映画のタイトルですが、すべて「文章」になっています。

過去にはこんなのもありました。

『もし高校野球のマネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』
『いま、会いにゆきます』
『世界の中心で、愛をさけぶ』
『それでも僕はやってない』

別にすべての文章系タイトルが悪いと言いたいわけではありません。

例えば、

『吾輩は猫である』
『亀は意外と速く泳ぐ』
『殿、利息でござる!』
『白鳥麗子でございます!』
『幕が上がる』
『アリのままでいたい』

これらは「芸」があるから少しも不快に思いません。

しかし、『黒崎君の言いなりになんてならない』『兄に愛されすぎて困ってます』なんかはタイトルを見ただけで不快だし少なくとも私は見に行く気が失せます。

『チア☆ダン ~女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話~』なんかは厳密には文章ではありませんが、「チアダン」という言葉がメインタイトルとサブタイトルで重複しちゃってて「説明」の匂いがプンプン。

そうなんですよね。文章系タイトルの罪は内容を説明してしまっているところにあると思います。

では、なぜ最近こういう文章系タイトルが増えてきたかを調べてみると、どうやら原作になるラノベやマンガにこういうタイトルのものが増えているから、という答えが載っているサイトがありました。

『ブギーポップは笑わない』
『僕の妹がこんなに可愛いわけがない』

あたりが走りらしいですが、では、なぜラノベやマンガに文章タイトルが増えたのか、についてはよくわからない。

これは、プロデューサーに脚本を読めない人が増えているという事象と通底している気がします。

ある監督さんと話をしたとき、「最近のプロデューサーは本当に読む力がない」と愚痴ってました。

だから読むだけでも修練の要る脚本ではよくわからないから、小説みたいに微細な説明を施した長い長いプロット(もうそれはプロットとは呼べないと思うけど)を書かされるとか。

小説すら普段読まない人たちにダメ出しされるわけだから、書いてる人たちはたまったものじゃないでしょう。

小説といえば、一般的に「文学」といえば「小説」を指す、という現代特有の風潮もあると思いますね。

『幕が上がる』なんて、それだけで一篇の「詩」だと思うし、タイトルを聞いただけで胸が高鳴る。そして内容は一切説明せず象徴に留まる絶妙のタイトルだと思うんですが、『兄に愛されすぎて困ってます』のどこに「詩」があるのでしょうか。どこに「芸」があるのでしょうか。「説明」以外に何があるのでしょうか。

ずっと前の話ですが、ある人に谷川俊太郎の詩集を貸したら「さっぱりわからなかった」と言っていました。その人、結構な読書家なんですけどね。小説(散文)は読めても詩(韻文)が読めない人がものすごく増えている。

タイトルの文章化は内容にも波及してますよね。

昔の映画は、必要最小限の説明しかしませんでした。それがセオリーでしたが、いまの映画は説明してばかり。開巻早々、主人公のナレーションですもんね。それは日本映画よりアメリカ映画のほうが顕著かもしれませんが。

タイトルの文章化と説明過多な作劇は表裏一体と思われます。その根底には「詩」を読まなくなった、「小説」だけが文学だと思われている風潮がある気がしてなりません。





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