いま、ある脚本を準備していまして、別にそのための取材というわけじゃないんですが、何の気なしに読んでみた、哲学者・中島義道さんの『不幸論』(PHP文庫)がやたら示唆に富んでいて驚きました。



現代ニッポンは「幸福教」に汚染されている、というのが中島さんの主張で、何でもかんでもポジティブに捉えねばならないだの、人生の目標は幸福になるためだの、そういう能天気な人々への呪詛で充満している本なのです。

中島さんなりの「幸福」の四条件を記すと、

①自分の特定の欲望がかなえられていること。
②その欲望が自分の一般的信念にかなっていること。
③その欲望が世間から承認されていること。
④その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れないこと。

いま構想中の脚本は、主人公と準主人公が二人とも相反する「信念」に基づいて行動するもので、その信念が葛藤を演じるわけですが、なるほど、中島さんによれば、それは②を満たそうということなんですね。

もともと①は満たしているわけですが、では③や④はどうかとなると、少なくとも主人公に関しては、どちらも満たしていない。誰からも承認されず(一部には認めてくれる者もいるが)そして愛する者を不幸に陥れてしまう。

じゃあ、どうやって幸福になったらいいのか、と考えあぐねていたんですが、『不幸論』を読んで吹っ切れました。

主人公も準主人公もどちらも「幸福」になどならなくていいのです。なぜなら人生の目標はそれがゴールではないから。

ヒルティの『幸福論』によると、

「人はそれぞれ自分の『かたち』を完成させねばならない」

とあるらしく、「かたち」とは何ぞや。それは、「自分自身」である。と中島さんは言う。

人生の目標は幸福になることではなく、自分自身を選ぶことだ、と。

「幸福になろうとすること、それは自分自身を選ぶことを断念することである。自分自身を選ぶこと、それは自分自身の不幸の『かたち』を選ぶことである」

というのが最終章での恐ろしい言葉。

そして、最終幕にはさらに恐ろしい言葉が綴られます。

「あなたは自分自身を手に入れようとするなら、幸福を追求してはならない。あなた固有の不幸を生き続けねばならないのである」

これは私個人の人生の指針にもなるというか、まさにこういうつもりで生きてきたような気もしますが、それよりも確実なのは、いま書こうとしている脚本に活かせそうということです。

ある信念と信念のぶつかり合いというより、幸福を追求する人間と不幸を追求する人間の葛藤劇として考え直したほうがよさそうな気がしてきました。

中島義道さん、またしても素敵な読書体験をどうもありがとうございました。




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