「いまこそ読まれるべき書」と聞いたので、中江兆民の『三酔人経綸問答』(光文社古典新訳文庫)を読んでいたく感銘を受けた、というか、マルコムXの伝記映画を作ったスパイク・リーの怒りを思い出した、というのが今日のお話です。



三人の登場人物による思想劇で、

南海先生
洋楽紳士
豪傑君

この三人が、19世紀末における国際政治の舞台で日本がいかなる外交政策を取るべきか、ということを議論するんですが、

まず、洋楽紳士がカントの『永遠平和のために』の影響をうけまくったのか、自由・平等・絶対平和を唱え、ダーウィンの進化論も交えながら「世界は戦争をしない方向へ進化すべきだ」みたいなことを言い、かと思えばそれに異を唱える豪傑君が「この帝国主義の時代、ヨーロッパではフランスとドイツが争い、イギリスとロシアは東アジアで覇権を争っている。ならば最も現実的な方策は『軍備拡張』と『対外侵略』しかあるまい」と自説を講じる。

これに対し、酒杯をグイグイ空けながら二人の議論を聞いていた南海先生は、

「二人の言うことはまったく対極の意見だけれども、その急進的なところにおいてまったく同じである。酒席の雑談ならば奇抜を競うのもよかろうが、国家百年の大計とあってはいたずらに奇抜や新味を求めて喜んでいるわけにはいきません」

その南海先生の持論はというと、

「外交政策については、努めて友好を重んじ、国の威信を損なうことがないかぎり決して国威と武力を誇示することをせず、言論、出版、様々な規制については次第に緩やかにし、教育の実施、商工業の活動は次第に充実を図る、などです」

というもので、このあまりに平凡な言説を急進派の洋楽紳士と豪傑君は「子どもの意見みたいだ」と嗤うんですが、先述の通り南海先生は「漸進的」であることを尊ぶ。「平凡の非凡」というやつですね。

なるほど、極左たる洋楽紳士のやり方でも国は破滅しましょうし、極右たる豪傑君のやり方でも破滅は免れないのは歴史が教えるとおり。

南海先生はこうも言います。

「『賜った民権』を『回復した民権』にしていくほかはない」と。

いまの日本に当てはめれば、「賜った民権」とはアメリカから押しつけられた日本国憲法であり、それを安倍某がやろうとしているように急進的にではなく、あくまでも漸進的に日本国民自らが「回復した民権」に変えていかねばならない、ということになるだろう、と訳者である鶴ヶ谷真一さんは言います。

さて、ここで登場するのが、スパイク・リーが1992年に発表した『マルコムX』という映画です。

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三酔人による政治問答はあまりに面白いんですが、訳者の鶴ヶ谷さんによると、

「この本を読んで、もっぱら直接的な政治的メッセージだけを読み取ったならば、その人はこの類まれな作品を最も貧しく読んだことになるだろう」なんですって!!!


まさに私がそういう貧しい読者だったわけですが、ここですぐ脳裏に浮かんだのがスパイク・リーと『マルコムX』でした。

スパイク・リーは、あるインタビューでこう語っていました。

「確かに俺の映画では政治的主張をたっぷり盛り込んである。だけど、それだけが映画のすべてであるわけがないんだ。批評家は俺の映画を見てもっぱら政治的主張の是非ばかりを論じたがる。誰も俺の映画のライティングやセット・衣裳の配色を論じようとしない。彼らはちゃんと映画を見ていないんだ」


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確かに『マルコムX』はアカデミー賞で主演男優賞と衣装デザイン賞にノミネートされましたが、誰もこの映画のデザインの素晴らしさをうんぬんすることはありませんでした。

同様に『三酔人経綸問答』も政治的な主張だけでできているわけではない、ということなんだそうです。

ううう、私は政治的な主張だけを読むという愚を犯してしまいました。というか、こういうところが「政治」を扱うときの難しさなのでありましょう。

政治的にも美学的にも一級品を作り上げた中江兆民とスパイク・リーには、ただただ敬服するばかりです。




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