昨日は遅番だったので、サッカーを見たあと出勤時間までゆっくり新聞を読んだりビデオ見たりしてたんですが、呼び鈴が鳴ったので出てみると、初老のおばさんが柔和な笑顔で、

「 早起きの会をご存じですか?」

と言ってきました。


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(注:この人ではありません)
 
で、知らないと答えたところ、

「倫理というものがありますよね。政治の倫理とかいろいろありますけれども、生活そのものにも倫理というものがあってね」

いや、それはそうでしょう。それには100%同意しますよ。と思ったら冊子を二冊渡してきて、

「決して宗教ではないので」

と言って去って行きました。

宗教ではないので???


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まさに、「はああああ?????」ってな感じでしたね。

では、逆に宗教だったら怪しいということ?

さっぱりわかりません。

清水富美加出家で宗教を考える  という日記にも書きましたが、フィクションがなければ生きていけない人間は誰しも宗教を必要としていて、誰しもが「信者」なのです。

既成の〇〇教とは言わないだけの話で、生活に関する倫理について話し合う会、早起きをして集まる会だって、どちらも「教会」のはずです。

日本人はどうも「宗教」という言葉にアレルギー反応を示す人ばかりですね。だから「決して宗教ではありません」という断りを入れないと人が集まらない。

私は聖書を通読したことがあります。「創世記」や「ヨブ記」「ヨハネの黙示録」などは何度も読み返しています。単純に読み物として面白いから。

でも、こういうことを言うと、かなり怪しげな奴と思われるんですよね。

宗教=怪しい

という先入観、固定観念はすべての人がいますぐ捨て去るべきです。

去年、佐村河内さんに取材した『FAKE』が素晴らしかった森達也監督が以前、

「神でない人間には『客観的事実』なるものは永久にわからない」

と言っていました。

そうです。人間はそれぞれの「主観的事実」しかわかりません。

そもそも「客観的事実」なんてものがあるのかどうかが怪しいのです。だって、それを把握できる「神」という存在そのものが人間の捏造したフィクションにすぎませんから。「客観的事実」なる概念も人間が捏造している可能性が高い。

私も「神」なるものは何らかの形で存在していると信じていますが、それは生きていくうえでの「捏造」にすぎません。

宗教家は神を捏造して人を騙していると指弾する人の言い分ももっともでしょうが、それだってその人の「主観的事実」にすぎません。

神というものの存在の有無を客観的事実として把握できない以上、いくら指弾したところで「絵空事」なのです。

宗教の門をくぐる者も、彼を非難する者も、どちらも「絵空事」を信じているだけ。

『閑吟集』という書物には、次のような有名な一節が載っているそうです。



一期は夢よ、ただ狂え!


 
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